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いつだって新しいスタートは切れる。 - 橋本剛さん(デイサービス管理者)
更新日:2024/10/01

いつだって新しいスタートは切れる。 - 橋本剛さん(デイサービス管理者)

いつだって新しいスタートは切れる。 - 橋本剛さん(デイサービス管理者)

2021年1月取材(東京都品川区)

お話を伺った方

デイサービス管理者/橋本 剛 さん

社会福祉法人さくら会。介護福祉士。指定認知症対応型通所介護事業所(デイサービス)の管理者をしながら、法人内部研修や地域向けの家族介護者教室で講師を担当。「みんなの談議所しながわ」注1)に立ち上げメンバーとして関わっている。

注1) みんなの談義所しながわ:地域に暮らすさまざまな人たちがゆるやかに集まり、言葉と想いを交わす場所。話す内容はその場の雰囲気しだい。話したいことがあれば自由に話してもらえればいいし、その場にいるだけでもまったくOK。参加している若年性認知症のご本人の思いから、戸越銀座商店街で特製とん汁を振る舞うイベントや餅つきなども開催。月一回程度のペースで活動を続けている。

橋本さんは現在、認知症の人が利用する
デイサービスの施設長をしていますが、
そもそもいつ頃から認知症の人と関わるようになったのでしょう。

「社会福祉法人さくら会」に勤めてもう20年になりますが、認知症の人とのつながりとなるともう少し前に遡ります。介護福祉専門学校の学生時代、実習で認知症の人たちの施設での暮らしを体験する機会がありました。当時はまだ、認知症の人の個別性を重視した対応や、本人の視点に立ったケアといった考えは今ほど普及していません。職員さんたちの本意ではないのでしょうが、決められた流れの中に認知症の人たちが置かれている、といった印象を受けました。お一人お一人と接していても、生きづらさだったり悲しさ、つらさが伝わってきて、二十歳そこそこだった私には強烈な体験でした。

そこが始まりだったのかもしれません。認知症の人たちのために何かをしたい、働きたいという思いが強くなり、さくら会に入る際に、認知症の人たちが暮らすフロアでの仕事を希望しました。

施設での研修の前は、認知症の人に対して
どのようなイメージを持っていたのですか。

仕事として以前に、ということですね。そうなるとさらに遡り、人生相談みたいな話になるかもしれません(笑)。実はすぐ上の兄がダウン症で、私は物心ついた時からそうした兄と一緒に育ちました。社会には何らかの障害のある人たちがいる──言葉にすればそういう話になるのでしょうが、私にとっては何の違和感もない世界でした。それだけに、施設で認知症の人たちの姿を見て大きなギャップを感じたのかもしれません。

もう一つ、私は小学生の頃に交通事故で左足を骨折し、3カ月間入院しました。その時、同じ病室に認知症の方がいらっしゃったんです。かなり頑固なおじいさんで、看護師さんたちのいうことを聞きません。だけど私と話す時はにこやかな笑顔を見せてくれます。看護師さんも「橋本くんのいうことはよく聞いてくれるのよね」と話していました。
そうか、こちらがあらかじめ壁をつくらなければふつうに話ができるんだ。子どもながらにそう思ったことも、今につながっているのかもしれないですね。

子どもの頃や学生時代に心に残る体験をし、
実際に介護の仕事についた時、
何か戸惑いはあったのでしょうか。

介護の実情に批判的になるつもりは全然ないんです。ただお恥ずかしい話、私は人とのコミュニケーションがあまり得意な人間ではありません。そのために行き詰まりを感じる時期もありました。認知症の人が置かれた状況に対し、私はある種の違和感を抱いて介護の仕事をスタートしたわけですが、施設には私と思いを同じくしてくれる職員さんもいれば、そうではない職員さんもいます。その中で自分の思いを実現していくのは、とてもたいへんなことのように思えました。私は少しずつ施設の外にも出ていくようになりました。

外に出てみると、私と同様、組織の中で窮屈な思いをしている人たちが集まる場がありました。そこで私の心に生じたのもやはり違和感でした。ともすれば介護や福祉の専門家だけで盛り上がっているような、そんな空気感を感じたのです。

子どもの頃や学生時代に心に残る体験をし、実際に介護の仕事についた時、何か戸惑いはあったのでしょうか。

橋本さんの中で違和感がくすぶり続けていたわけですね。そうした状況が変わるきっかけは何だったのでしょう。

自分の仕事にも関連し、品川区でまちづくりに関するイベントが開催されました。その“まちづくり”の中には、認知症や高齢者だけでなく、防災や商店街の活性化、お子さんの教育といったテーマも含まれます。「みんなで課題を持ち寄って解決策を探ろう」という趣旨の会でした。私はそこで大きな刺激を受けます。

先ほど、専門家だけで話し合うことへの違和感といいましたが、そうはいっても私自身、結局は介護や高齢者福祉の枠から出ないところで話をしていました。自分の視野の狭さを、幅広いバックグラウンドを持つ人たちの集まりで強く意識させられました。

まちにはさまざまな人が暮らしています。一人一人、困っていることは多岐にわたります。だけど自分たちは、高齢者や認知症という限られたテーマを掲げ、どうにかしようと模索してきました。テーマを明確にすることで話し合いがしやすくなる面もあるでしょう。でも一方で、さまざまな課題を持ち寄ることでジョイントできる部分に気づいたり、思わぬ方向から解決の糸口が見えてきたりもする。そうした様子を目の当たりにし、自分のフィールドに戻った時にも、さまざまな人たちがやんわりと話のできる場があれば素敵だろうと思いました。

その後、品川区のごく内輪の集まりで、お酒の勢いも手伝い、談義所(みんなの談義所しながわ)の原型ともいえるイメージをちらっと話したら、「おもしろそうだね。やってみよう」という空気になりました。それが談義所の最初のスタートだったと思います。

橋本さんの中で違和感がくすぶり続けていたわけですね。そうした状況が変わるきっかけは何だったのでしょう。

テーマを決めないゆるやかな集まりに
強くひかれる部分もあったのでしょうか。

そうですね。正直いって、私は大人になってからは“友だち”ってそうはできないと感じていました。意図的につくろうとしないと難しいと──。趣味の仲間ならできるかもしれません。でも、別に趣味とかに関係なく、ただ何か話がしたい時に聞いてくれる人がいてくれる。そういうことってなかなかないのかなあと、漠然とした思いはありました。

気の置けない飲み会で率直な思いを話したことが発端となり、談義所(まだその名前もついていません)への参加を呼びかけるようになりました。最初のうちは5人来てくれればいいほうで、メンバーも品川区内で働く介護や福祉の関係者などに限られていました。
会を開いて3、4回目だったでしょうか。さくら会が運営する居宅介護支援事業所のケアマネジャーさんから、「橋本さんたちの集まりに興味がありそうな若年認知症の方がいらっしゃるので、声をかけてみてもいいかな」という話がありました。そこで初めて参加してくださった認知症のご本人が、現在、厚生労働省の認知症本人大使「希望大使」を務めている柿下秋男さんでした。

柿下さんが継続的に参加し、認知症のご本人の立場からいろいろなお話をしてくださる中で、談義所としても何かできることはないか、といった声があがるようになりました。それからは、柿下さんご自身がいろいろなつながりをつくり、私たちを引っ張ってくださるかたちで談義所の活動が広がっていきました。
同様に、やはり認知症のご本人である三橋昭さんの地域での活動や、品川区在住の飲食店経営者、新聞記者などさまざまな方々の協力を通して、意図しないところでゆるやかなつながりがどんどん増えています。私が見ていてわくわくするぐらいです。

テーマを決めないゆるやかな集まりに強くひかれる部分もあったのでしょうか。

お話を聞いていると、認知症があるかないかという部分は
それほど大きな位置を占めていない印象も受けます。

あらためてそのように問われ、「そうです!」と答えるのも違和感があります (笑)。それぐらい意識していないということです。認知症の人に限らず、困っている人がいて、その人が助けを求めているなら、手を貸すのはふつうのこと。そう思う人たちがここに来ていますし、そのような雰囲気がいいと柿下さんや三橋さんも話してくれています。

一昨年、談義所の常連さんの呼びかけに、いつものように柿下さんたちが「おもしろそう」と反応し、静岡県富士宮市で行われたソフトボール大会(「Dシリーズ」注2)全日本認知症ソフトボール大会)に出場しました。ただ私はスポーツ音痴で、さっき話したようにコミュニケーションが苦手なほうなので、ちょっと気乗りがせず「Dシリーズ」には参加しませんでした。
認知症関連のイベントだから参加しなきゃいけない、といった意識は私にはありません。談義所に来ているみなさんも一緒だと思います。何かをやりたいという人たちが声をあげて企画が起こり、「俺も参加するよ、やってみよう」という人や「手を貸すよ」という人が出てくる。その企画には参加しない人たちもいて、でも別の企画には手を挙げるかもしれない。そうしたゆるい感じで談義所はずっとやってきています。

私は「Dシリーズ」には参加しませんでしたが、「すごく楽しかった」というお土産話を聞いて心底「よかったなあ」と思う自分がいます。その人が楽しければ私も楽しいし、つらかったり不安だったりすれば私にもそういう感情が起こるのでしょう。認知症の人だから特にそう感じるのかというと、たぶん違うはずです。談義所の誰に対しても一緒だと思います。

注2) Dシリーズ:Dementiaシリーズ(全日本認知症ソフトボール大会)。認知症になってもやりたいことに熱く打ち込みたい、挑戦し続けたい!そのような本人さんたちの声から、真剣勝負のソフトボール大会を実現。

談義所での活動を踏まえ、
認知症の人たちに伝えておきたいことはありますか。

どれだけさまざまな人に出会うかによって大きな違いが生まれると思います。限られた人としか出会わなければ、「認知症という枠の中で生きていくしかない」というあきらめの感情が無意識のうちに定着してしまうかもしれません。

私は施設で接する認知症の人たちに、できるだけ談義所のことを伝えるようにしています。興味があればぜひ参加してほしいし、柿下さんや三橋さんともつなげていきたい。認知症だからといって世界観を狭めてほしくはないのです。
私の話を聞いて「動いてみよう」と思う人もいれば、なかなか足を踏み出さない人もいます。もともと人はさまざまなので、そこは本人にゆだねるしかありません。ただ、認知症になってからも好きなことを楽しんでいる人たちがいて、それが決して特別でないことは知っておいてもらえるといいなと思っています。

自分自身が認知症の診断を受けた時、やりたいことができていたらうれしいですね。まあ、私はたいして趣味があるほうではないのですが、人との出会いがそうであるように、いつでもたぶん新しいスタートは切れる気がしています。柿下さんは認知症になってから写生を始めました。三橋さんはイラストを描くようになりました。お二人ほど活動的ではなくても、診断を受けたあとでやってみたら楽しかったこと、続けたいと思うことも出てくるはずです。私みたいな人間はきっとそういうタイプなのかもしないですね。

あなたにとって
認知症とは何ですか?

あなたにとって認知症とは何ですか?

新しいステージでしょうか。認知症というとまだまだネガティブなイメージが先行しますが、何か新しいきっかけになることもあるはず。柿下さんは認知症になってから、談義場でさまざまな人とつながり、ライフワークと呼べる活動に出会い、新しい自分を見いだしました。ポジティブな面をことさら強調するつもりはありませんが、新しいきっかけの一つにはなると思います。