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認知症になっても、ならなくても自信だけは失わないでほしい - 繁田雅弘さん(医師)
更新日:2024/10/01

認知症になっても、ならなくても自信だけは失わないでほしい - 繁田雅弘さん(医師)

認知症になっても、ならなくても自信だけは失わないでほしい - 繁田雅弘さん(医師)

2020年8月取材(東京都港区)

お話を伺った方

医師/繁田 雅弘 さん

認知症専門医。東京慈恵会医科大学精神医学講座教授。医療の枠にとらわれず、認知症の人をいかに支えるかを追求している。神奈川県平塚市の実家にて認知症の啓発活動などを地域住民と共に行う「SHIGETAハウスプロジェクト」を主催。

繁田先生が認知症の診療を始めた当時、医療の現場では、
認知症の人の想いについてどのように考えられていたのでしょう。

認知症の人が何を想っているか、1980年代にはおそらく誰も考えていませんでした。考えていなかったから、本人の話をしっかり聞いていなかったんだと思います。当時は僕も、「今日の気分はいかがですか」「つらいことはありませんか」と本人に尋ねることさえしませんでした。いま振り返ると不思議なのですが、一方的に「認知症の人は何も理解できない」と思い込んでいたのでしょう。
認知症の人が精神科病院に入院したり、施設に入所する時も、本人とは相談せずに家族と決めていました。入院・入所が決まった後で、本人に説明して納得してもらっているケースがあると、さも理想的な対応のように賞賛されたものです。その時ばかりは本人の話に耳を傾け、表情を伺い、気持ちを汲みながら言葉を選び、穏便に納得してもらえるよう説得に努める。精神科医はそういうことが得意ですからね。「精神科の医者は優しい」なんて言われたりもしました。うまく言いくるめようとしていただけなのですが。

説得が目的とはいえ、本人たちの話を丁寧に聞いているうちに、「想像していたのとは違う」と感じるようになりました。「ちゃんとわかっている」と。 たとえば、「家族にこれ以上迷惑をかけたくないから、やっぱり施設に入ろうかなあ」と話す人がいました。「なぜ入所しなきゃいけないのか息子に聞きたいけれど、聞けば息子もつらいだろう」と遠慮している人もいました。自分の置かれた状況がちゃんとわかっている。家族のことも考えている。その気持ちをこちらは説得に利用しました。「家で気まずい思いをしているよりも入所したほうがいいんじゃないですか」
「時々会うのなら家族も優しくしてくれますよ」というように。本当は良くないことですよね。さすがにこれはおかしい。もっと本人の想いを引き出し、尊重すべきではないかと考えるようになりました。

今も一般の人たちの中には、「認知症になると何もわからなくなる」
という先入観があるように思います。臨床の現場でそれを感じることはありますか。

確かに、医療や介護の専門家が「何もわからないわけじゃない」と説明しても、「いずれはわからなくなるのだろう」と思う人は少なくないようです。たとえばこんなケースがありました。認知症の人の息子さんが久しぶりに面会に行き、「おふくろ、元気か」と声をかけると、「タケシかい」と言われました。「それ、俺の名前と違うだろう」。その瞬間に息子さんは「あ、もう息子のことさえわからない」とショックを受けてしまいます。でもそれは偏見なんです。名前の記憶が曖昧になり、間違えることもありますが、その人の顔と様々な思い出は固く結びついていることが多いように思います。なのに名前一つ間違えただけで「何もわからなくなった」とされてしまう。そこであきらめずに、様々な記憶につながるような話しかけを息子さんがすると、その人は孫たちとのエピソードを正しく思い出しました。
私の今のテーマはそれですかね。「何々はできないけれど、それ以外は問題ない」ということを理解してもらおうと試行錯誤しているのかもしれません。

今も一般の人たちの中には、「認知症になると何もわからなくなる」という先入観があるように思います。臨床の現場でそれを感じることはありますか。

どうしても、わからないこと、できないことに
目が向いてしまうのでしょうね。

もしみなさんが、認知症の症状に出会う前にその人に出会っていれば──たとえばその人のユーモアに触れたり、おいしい食事を楽しんだり、一緒に落語を聞いて笑ったりしていれば、「あ、時々忘れるんだ」「前みたいに料理がうまくできないんだ」ということは後からついてきます。「ほかのことは普通にできるけれど、そこだけはしんどいんだな」という冷静な認識が持てるのではないでしょうか。
だけど家族は「忘れるだけ」でも許せません。今までできていたことができなくなると、そればかりに引きずられ、「私の知っている〇〇じゃない。本来の姿に戻ってほしい」と動揺します。悔しさのあまり本人を責めてしまうこともあるでしょう。医者がそうした家族を非難し、追い詰めても意味がありません。「何もわからない、何もできない」という思い込みはなかなか変えられないので、思い込みから間違った行動に走る前にブレーキがかかるよう、精神的な余裕を持ってもらうことが大切です。

「忘れることが許せない」という家族に対して私は、「許せない苦しみ」に共感することから始めます。「やっぱり悔しいですものね」「難しいですね。どうしたらいいのだろう」と。するとそのうちに家族は、「(本人を責めるようなことを)言っちゃいけないのはわかっているんですけれどね」などと言葉にしてくれます。まずはその段階まで持っていき、さらに冷静さ、精神的な余裕が持てるようにサポートしていきます。

家族から、できないことにばかり目を向けられると
本人はつらいでしょうね。
先生は外来で、そうした本人にどういう話をしているのですか。

認知症の検査の結果は3つのパターンに分かれます。認知症か、認知症じゃないか、あるいは今は何ともいえないので半年後にまた検査をするのか。どのパターンであっても私が伝えたいことは同じだし、検査の後だと結果に振り回されて私の話が耳に入らないので、必ず検査前にある注意をしています。それは「自信をなくさない」ということです。
検査の結果、認知症だったとします。これから忘れることや失敗が増えるかもしれません。でも自信さえ失わなければ、今まで通りにできることはいくらでもあり、この先も自分らしい人生を歩めます。
認知症ではなかったとします。「ああ良かった」と安心するでしょうが、病院に来る時の気持ちを思い出してください。失敗を重ね「こんなはずじゃない」と思っていたのではないですか。家族も心配だから受診を勧めたのではないですか。やはり以前のあなたとは違っているはずです。今後、そうしたことで自信をなくすと、認知症ではなくてもできないことが増えていきます。だから自信だけはなくさないでください。

認知症であっても、本人が自信を取り戻すといったんは元気になります。家族にも少し余裕ができます。そのタイミングで家族にはこう話します。「この先何年かするとやっぱり症状が出てくるかもしれません。でも今のうちに覚悟を決めておけば大丈夫、また頑張れますからね」。
病気になる前に近い段階で覚悟を決められるのはとても良いことだと思います。今は病気でない人も、元気なうちから、「認知症にならないように」ではなく、「認知症になっても自分らしく生きられる。生きよう」という覚悟を持っておいていただきたいですね。

家族から、できないことにばかり目を向けられると本人はつらいでしょうね。先生は外来で、そうした本人にどういう話をしているのですか。

2019年5月から、繁田先生の空き家となった生家を
「SHIGETAハウス」と名付け、カフェや認知症の講習会、音楽や農作業を楽しむ催しなどを開いていますね。

一番のポイントは、認知症の人が「診断を受けてこれからどうやって生きていこう」と思った時に、やりたいことを選択したり、これをやろうと気持ちを固めたりするのをサポートしてくれる場がないんですよ。医師や看護師は「何かやりたいことがありますか」と尋ねます。福祉の専門職は「何かおやりになりたいことがあればサポートしますよ」と言ってくれます。でも「そんなこと聞かれてもわからない」という人が多いのです。その時に相談に乗り、「こんなことどうだ」「俺それあんまり好きじゃないし」とか、「昔こんな趣味があっただろう」「いまは興味ねえなあ」とか話し合いながら、「あ、だったらこれやろうかな」と本人の中で意欲が醸成するのを手伝ってくれる場がない。SHIGETAハウスで一番やりたいことはそれですね。

幸いSHIGETAハウスのスタッフには、優秀な医師、看護師、作業療法士、精神保健福祉士、ケアマネジャーなどの専門職が集まってくれました。みなさん、認知症の症状を一度脇に置いて“人間”を見ることができます。環境もいいですね。普通の民家で、お茶室や小部屋もあり、「ちょっと話をしようや」という感じで気さくに相談に乗れています。
行くところがないからいる居場所ではなく、ここでやりたいこと、行きたいところを見つけ、卒業してもらうのが理想です。SHIGETAハウスを始めて、僕はこれから自分が本当にやりたいことを見つけました。認知症の人だけでなく、私やスタッフにとっても発見の場なんです。

2019年5月から、繁田先生の空き家となった生家を「SHIGETAハウス」と名付け、カフェや認知症の講習会、音楽や農作業を楽しむ催しなどを開いていますね。

認知症に対する先生のそうした想い、モチベーションは
どこから来ているのでしょう。

老年精神医学を専門に選ぶ際にこんなことを言われました。子どもにはこれから長い時間を生きる未来がある。だからその未来を左右する医療の意義はとても大きい。それに対して高齢者は、と。でもやりがいは、ありますねえ。だって相手にするのが60年70年80年と生きて経験を積んだ強者(つわもの)たちです。薄っぺらな対応では太刀打ちできません。
高齢者の病気、特に認知症は、病気の症状とその人の人生が複雑に混ざり合っています。だから、いまこの症状だから1週間後はこうなるとわかるわけではありません。わかるわけではないけれど、経験を重ねることで、わからない複雑さを受け入れ、複雑さと付き合えるようになります。白か黒か、治せるか治せないかを超越して病気と向き合えるようになります。この10年ほどですかね、そうした想いが強くなっているんです。

認知症の人と自分を重ね合わせることはありますか。

いや、いやまだ違うかなあ。……だからやっぱりそれが偏見になってしまうのでしょうね。長谷川先生(長谷川和夫先生。認知症研究の第一人者。2017年に認知症であることを公表)はご自分も病気を患われた後で僕に、「デイケアがつまらないことがわかった、行く気がなくなった」と話されていました。別にそれはデイケアを否定する意味では全くなくて、何が合うかは人それぞれ違うということですよ。僕はまだ、本人のそうした想いを本当には実感できていないかな。認知症にならない限りダメなのかもしれない。なってみないとわからないことがあるんだと思う。だからわかろうとし続けないといけないのでしょうね。

あなたにとって
認知症とは何ですか?

あなたにとって認知症とは何ですか?

それがわかったら認知症(に関わるの)はやめますよ。認知症という病気そのものがまだ十分にわかっていないということもありますが、僕にとっての認知症がまだわからない。納得できていないわけだから。満足できていないわけだから。だからやっているわけですよ。