「長谷川式認知症スケール」の開発者・長谷川和夫が認知症に|息子・長谷川洋が語る父、もの忘れ、介護

「長谷川式認知症スケール」を開発し、日本の認知症医療の礎を築いた故・長谷川和夫先生(1929年2月5日〜2021年11月13日)。晩年には自らも認知症になったことを公表し、認知症の当事者として疾患啓発の活動を続けました。
そんな偉大な父を、家族として見守っていたのが、同じく精神科医である息子の長谷川洋先生です。認知症医療の第一人者だった父が認知症になったとき、家族は何を感じ、どのように向き合ったのか。長谷川洋先生に、父・長谷川和夫先生との思い出、認知症や介護に対する考え方などについて伺いました。
認知症医療の第一人者、医学者、精神科医。
認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長、聖マリアンナ医科大学名誉教授。認知症のスクリーニング検査として日本国内の医療現場で広く使われている「長谷川式認知症スケール(HDS-R)」を開発した(HDS-RはHasegawa Dementia Scale-Revisedの略称)。
長谷川和夫先生が自分で認知症に気づいた「ギョッとするもの忘れ」|嗜銀顆粒性認知症の診断

診療所での長谷川和夫先生
テヲトル:「長谷川式認知症スケール」を生み出した認知症研究の第一人者である長谷川和夫先生が自ら認知症であると公表したのは衝撃的でした。公表に至るまでに、息子の洋先生から見て、お父様にはどんな変化があったのでしょうか?
長谷川洋先生:父が認知症であることを公表したのは2017年10月でしたが、公表する数年前から母は父について「最近、忘れっぽくなってきているわ」と話しておりました。しかし私自身、日々の忙しさに紛れ、最初はそこまで深刻に受け止めていませんでした。
その後、こんな出来事もありました。父が私の講演を聞きに来ると言っていたのに、予定時間を過ぎても会場に現れませんでした。大幅に遅刻して到着した父は「途中で道がわからなくなった」と言いましたが、時間を几帳面に守る人でしたので、その時「父は認知症かもしれない」と強く感じました。とはいえ、当時の父はすでに80代でしたので、遠方からの道程で迷ったり遅れたりするのは年相応かもしれないという気持ちもありました。
普段から私自身も精神科医として多くの認知症の症状のある患者さんを診察しています。しかし、いざ自分の親となると「もの忘れ外来を受診してみたら?」と切り出すのは、やはりためらいがありました。息子として「父・長谷川和夫が認知症になった」と認めたくない気持ちもどこかにあったかもしれません。
テヲトル: ご家族から伝えづらい部分もありますよね。受診のきっかけは何だったのでしょうか。
長谷川洋先生:実は父のほうから「もの忘れがひどいから、認知症の薬を飲もうと思う」と自ら相談してきました。
テヲトル:長谷川和夫先生ご自身で気づかれたきっかけは何だったのでしょうか。
長谷川洋先生:父は生前、講演などでも「年相応のもの忘れは体験の一部を忘れるが、認知症のもの忘れは出来事そのものが丸ごとすっぽり抜けてしまう、ギョッとするような忘れ方だ」と説明していました。
ある日、父は「今日の午後に荷物が届くはずだ」と思って家でずっと待っていたそうです。ところが、実はその荷物はすでに届いていた。到着時間を間違うというのではなく、「届いた」という体験そのものをすっかり忘れていたんです。これに父自身がびっくりしたんですね。本人が「ギョッとするもの忘れ」を自覚したことで、これは認知症かもしれない、おかしいと察したのだと思います。
その後、私の診療所で認知症の進行を遅らせる薬を処方しつつ、元上司の専門医による精密検査を経て、高齢者に多い「嗜銀顆粒性認知症(しぎんかりゅうせいにんちしょう)」と診断されました。

なぜ認知症になるの?認知症の原因を種類ごとに解説
認知症の公表を迷った家族と、長谷川和夫先生の疾患啓発の使命感

日本老年精神医学会会場での長谷川和夫先生と洋先生
テヲトル:その後、長谷川和夫先生は認知症であることを公表されました。公表に対して、ご家族の中ではどのような話し合いがあったのでしょうか?
長谷川洋先生:父自身は「公表したい」という意志が明確でした。一方で、家族である私たちには戸惑いがあったのも事実です。認知症の症状がある中での本人の意思は、病気になる前の父の本来の意思と、本当に一致しているのだろうかと悩みました。
また、長年父と交流のあった医師の先生方からも「病気をわざわざ公表しないほうがいいのではないか?」と心配する声がありました。正直、私自身も迷うところではありました。
でも、父は最後まで公表したいという姿勢はブレませんでした。そして結果的に「公表してよかった。公表したおかげで、晩年も多くのメディアや講演で自分の経験を話すことができて、人の役に立つことができた」と言っていました。
父にとって認知症の研究や情報発信は生涯のやりがいでしたから、認知症になった後も、疾患啓発の場を持てたことは本当にありがたかったのだと思います。それに、最後まで使命感を持って認知症に対峙する父の姿を見て、公表したのは間違っていなかったのだと家族も思えるようになりました。
認知症介護の負担とデイケア|長谷川洋先生が長谷川和夫先生の介護で学んだこと

老人ホームに入居した長谷川和夫先生ご夫妻と洋先生
テヲトル:認知症と診断されてから、長谷川洋先生はどのように和夫先生と過ごされていたのでしょうか。
長谷川洋先生:私はもともと実家を離れて暮らしていましたので、日曜日に父の元へ顔を出し、一緒に近くの喫茶店に行って昔話をするようになりました。
ただ、本音を言えば、どれだけ短い時間であっても「自分の時間を介護にとられる」というのはしんどい部分がありました。週末に少し訪れる程度でも「せっかく日曜日はゆっくりできるのに、今日も実家に行かなきゃいけないのか。面倒だな」と思ってしまうこともありました。喫茶店に行ってもお互いに体調や機嫌が万全なわけではなく、すぐに帰ってしまうこともありました。
感染症やケガのように「ここを乗り切ればよくなっていく」など今後の見通しがつく病状と違い、認知症の介護はいつ終わるかが分からない、長く続くものです。こうした中で、心身ともにベストな状態で認知症の介護に関わり続けるのは、ご家族にとってとても大変なことだと身に沁みました。
テヲトル:毎日の介護となれば、なおさら負担は大きいですね。介護サービスは利用されていましたか?
長谷川洋先生:わが家の場合は、介護の大部分をプロの介護サービスにお願いしていました。自宅にいる時もデイケアなどを利用し、のちに介護施設への入所を選びました。
父は時々「デイケアに行きたくない」と不機嫌になることがありました。理由を聞くと「デイケアに行くより、みんなの前で講演がしたい」と言うんです。でも、ある取材を受けた際は「日本のデイケアはスタッフがみんな親切で素晴らしい。世界に誇れるシステムだ」と楽しそうに話す時もありました。
その時々で感じ方が変わるのは健康な人でも同じ。「仕事に行きたくない日」もあれば、「やりがいを感じて楽しい日」もある。認知症になったからといってすべてが変わるのではなく、気分に波があるのはごく自然なことです。
介護のプロの方に支えていただいたおかげで、私たち家族は共倒れすることもなく、最後まで「普通の親子・家族」として向き合うことができました。
テヲトル:ご家族はそれぞれ、どのような役割分担をしていたのでしょうか。
長谷川洋先生:母は父のためにピアノを弾き、父はその伴奏に合わせて讃美歌を歌うといった、穏やかな時間を過ごしていました。私には2人の姉がいるのですが、1番上の姉は父の講演会への付き添いを担当し、真ん中の姉は実家の近くに住んでいたので買い物などのサポートをしていました。私は週末に父の話し相手になり、それぞれが無理のない範囲で関わっていました。これはプロの力を借りられていたからこそ可能だったと思っています。
パーソン・センタード・ケア|戦争体験と認知症研究が結びついた長谷川和夫先生の強い理念

生後間もない長谷川洋先生を見守る和夫先生
テヲトル:認知症と診断された後、お父様はどのようにご自身の状態を受け止めていましたか?
長谷川洋先生:父は自分が認知症であることをきちんと自覚していました。だからこそ、「自分の記憶に確信が持てない」「確かさがない」と、不安やつらさを訴えることもありました。「この話、前にもしたかもしれないけれど」と前置きして話すなど、必死で自分の記憶と向き合っていた印象があります。
父との会話で特に印象に残っていることがあります。父と介護や患者さんの話をしていると、なぜか途中から自分の戦争体験の話が混じってくることがよくありました。混乱しているのかと思っていたのですが、そうではありませんでした。
父が言いたかったのは「戦争は、人が人でなくなってしまう。誰かが亡くなっても、その人がどんなふうに生きて、どんなことを考えていたかなんて、誰も気にしなくなる。でも、介護は真逆の世界にあるのだ。目の前の一人ひとりを尊重し、助け合って生きること。介護が成り立つためには、平和な世界であることが大前提だ」ということでした。
一人ひとりを尊重するというのは、父が長年訴えていた「パーソン・センタード・ケア(本人中心のケア)」の理念そのものです。戦争体験と長年にわたる認知症の研究と介護の話は、父の中でひとつにつながり、強いメッセージとなっていたのだと気づかされました。
「長谷川式認知症スケール」から血液バイオマーカーへ|認知症の早期発見は?

日本老年精神医学会会場で講演をする長谷川和夫先生
テヲトル:長谷川和夫先生が開発した「長谷川式認知症スケール」から半世紀。認知症の診断をめぐる環境も、大きく変わろうとしています。近年、少量の採血で認知症のリスクを調べる「血液バイオマーカー」など、新しい診断技術が登場しつつあります。この変化を専門医としてどのように捉えていますか?
長谷川洋先生:血液バイオマーカーによって、脳内にアミロイドβ(アミロイドベータ)などの原因物質が蓄積しているかを早期に発見できるようになるのは、非常に画期的なことです。
従来の「長谷川式認知症スケール」などの検査は、ある程度生活に支障が出たり、認知機能の低下が見られたりしてからスクリーニングを行うものでした。しかし、血液検査によって、自覚症状や生活への支障が出る前のMCI(軽度認知障害)の段階からリスクを把握できます。早期発見できれば、病気の進行を数年単位で遅らせることができる可能性があります。
一方で、課題もあります。「認知症のリスクが高い」と告げられることは、患者さんやご家族にとって、とてもデリケートな出来事です。早期診断が進むからこそ、診断後の丁寧な心理的フォローや、受け止めるためのサポート体制を社会全体で整えていく必要があります。
「父が認知症になってよかった」と息子が思える理由

講演会で司会を務める長谷川洋先生が「父が認知症になってよかった」とコメントしたときの写真
テヲトル:長谷川洋先生は「父が認知症になってよかった」とおっしゃっています。その言葉の理由を、改めて教えていただけますか。
長谷川洋先生:1点目は、父が「認知症になる年齢まで長生きしてくれた」ことへの感謝です。
私が高校生の時、父が入浴中に胸の痛みを訴えて裸で出てきたことがありました。当時はしばらく休んだら落ち着き、救急車も呼ばずにすみました。でも、後から思えば狭心症か心筋梗塞だったのだと思います。
私はきょうだいの末っ子で、父が40歳の時に生まれました。そんなこともあって、この出来事をきっかけに、「父は早くに亡くなってしまうかもしれない」という不安を抱くようになりました。高校生の頃から、その思いはずっと心のどこかにありました。
でも、父は92歳まで長生きしてくれました。年齢を重ねるほど認知症になる可能性は高まります。だから私には「認知症になるくらいまで元気に長生きしてくれた」という感謝の思いがあります。
2点目は、認知症医療の第一人者だった父が当事者になったことで「認知症は誰でもなり得るものだ」という当たり前の事実を、身をもって伝えてくれたことです。
そして何より、認知症になったおかげで父とじっくり会話をする時間が持つことができました。それまではお互いに忙しく、実家に帰るのも年に一度あるかないかで、ゆっくり話す機会もありませんでした。喫茶店で昔話を聞いたり本音で語り合えたりした時間は、父が認知症になったからこそ得られた宝物です。
今、この時を全力で生きる|認知症医療の第一人者・長谷川和夫先生の教え

長谷川和夫先生にとって講演会は最後までやりがいのある仕事だった
テヲトル:長谷川和夫先生が目指した「認知症になっても大丈夫な社会」を実現するために、何が必要だと思われますか?
長谷川洋先生:社会全体にゆとりと思いやりが持てるようになることが一番です。とはいえ、効率が求められる今の社会の中で、見知らぬ誰かにまで気を配り続けるのは、どうしても難しい場面もあります。まずは身近な地域の中に「顔馴染み」を作っていくことが大切だと考えています。
年齢を重ねると、どうしても家にこもりがちです。孤立しないため、決まった時間に近所のコンビニや理髪店、喫茶店に行ってみる。少しずつ挨拶を交わす関係ができると、道に迷ったり、体調を崩したりした時にも声をかけやすくなります。父も近所の喫茶店のマスターや理髪店さんとの交流をとても大切にしていました。
そして、もう1点は、ご家族だけで抱え込まず、行政(区役所や市役所の介護保険窓口、もの忘れ相談コーナーなど)を積極的に頼ることです。受診に迷っている段階でも、無料相談などで親身になって話を聞いてくれます。
父は生前、「生きているうちが華だよ」とよく言っていました。死んだら終わりなのだから、過去を悔やみすぎず、先のことを心配しすぎず、「今、この時を全力で生きる」と考えていたと思います。
認知症になっても、その人の人生や尊厳が失われるわけではありません。今という時間を大切にしながら、地域のプロや行政の力を上手に借りて、穏やかな日々を重ねていっていただきたいです。
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