ひょうひょうとしたキャラクターで、お茶の間を沸かせてきた漫画家でタレントの蛭子能収さん。
2020年放送のバラエティ番組で、認知症(レビー⼩体型認知症とアルツハイマー型認知症の合併症)を公表した後も、蛭子さんの「働いてお金を稼ぐ」という強烈なモチベーションは、決して衰えることがありませんでした。
そんな蛭子さんの意欲に20年以上寄り添い続けてきたのが、マネージャーの森永真志さんです。 実父の介護経験を持つ森永さんは、認知症を「隠す」のではなく「正しく公表する」ことで、本人と家族を守る道を選びました。
避けては通れない仕事の激減、現場での戸惑い、そして変化した夫婦の絆――。 「稼げなくなったら、奥様が倒れてしまう」と語る森永さんの言葉から見えてきたのは、ビジネスパートナーを超えた、暖かくもシビアな「介護と仕事」の絶妙なバランスでした。認知症に関わるすべての人へ、笑いと勇気を届けるインタビューです。
現場では誰も気づかなかった蛭子能収さんの認知症の進行。バス旅卒業を決意した瞬間

蛭子さんが認知症を公表したのは2020年7月のことですが、いつ頃から兆候は見られていたのでしょうか?

奥様が蛭子さんとの共著(『認知症になった蛭子さん〜介護する家族の心が「楽」になる本』)で明かされているように、2014年頃からもの忘れが顕著になっていたようです。とはいえ、蛭子さんのキャラクター的に、奥様もご本人もそれほど深刻に捉えていなかったみたいなんです。

テレビで見せる独特なマイペースさは、普段も変わらないのですね。

蛭子さんはどこでも自分を取り繕ったりしない人ですから、テレビも普段もまったく同じですね。

2014年頃の蛭子さんといえば、テレビで見ない日はないほどの活躍ぶり。中でも2007年に始まったテレビ東京系列「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」(「バス旅」)は、太川陽介さんとの名コンビぶりで大人気シリーズとなっていました。

おかげさまであの頃は本当に忙しくさせていただいて、年間で休みが10日もなかったほどです。ただ奥様によると確実に症状は進行はしていたようです。2017年頃にはご自宅のトイレの場所がわからなくなることもあったとおっしゃっていました。

それでもお仕事は問題なくできていたのでしょうか?

奥様にもよく「現場では大丈夫なんですか?」と聞かれましたが、少なくとも僕はまったく"異変"に気づかなかったです。たぶん共演者のみなさんもそうだったと思いますよ。
現場に入り、カメラが回るとパッと「タレント・蛭子能収」のスイッチが入るんです。どんなにもの忘れがひどくなっても、求められた役割を瞬時に理解して、お茶の間が期待する“蛭子さん”を演じきる。多少変な言動をしても蛭子さんなら許されるというか、芸人さんがツッコんでくれて笑いになれば番組が成立するみたいなところもありましたしね。

そうした番組でのポジションやキャラクターも含めて「以前と変わらない、いつもの蛭子さん」だったんですね。

はい。ただ旅番組については、「続けるのは難しいかもしれない」と感じる場面が徐々に増えていったのも事実です。

何かあったのですか?

ロケ先で今いる場所がわからなくなったことが何度かあったんです。それもあって旅番組は2019年末の放送を最後に卒業させていただきました。奥様から「担当医から認知症を発症した可能性が高いことが示された」と伝えられたのは、それからしばらくしてからのことです。
あえて「公表」を選んだ理由。蛭子能収さんが抱き続けた「稼ぎたい」という執着

バラエティ番組で認知症を公表したタレントは、おそらく蛭子さんが初めてだったのではないかと思います。事務所としてはどのような判断があったのでしょうか?

まず第一に本人と家族の意思を確認したのですが、当時すでに奥様は蛭子さんの介護に疲れ切っていました。

人気タレントのご家族ならではの悩みがあったんですね。

僕もその気持ちはよくわかります。。このまま蛭子さんがテレビに出続けて、何かあった時にSNSなどで不本意な情報が広がるのは絶対に避けたいと思っていましたから。それよりも「正しく公表する」ことが、蛭子さんを守りつつ、家族の負担を軽減することに繋がるのではないかという結論に至ったんです。

蛭子さんご自身にはどのような意志があったのでしょう?

明確な意志としてあったのが「これからもお金を稼ぎたい」ということでした。蛭子さんは「稼ぐ」ことへの執着が人一倍強いんです。漫画だけでは生活できなかった時代にはバイトで家族を養ってきた人ですから、タレントとして売れてからも「休みはいらない」というスタンスで、仕事の選り好みも、バンジージャンプみたいなもの以外は(笑)一切しないほどでした。

これからも働き続けたいという意欲を叶えるためにも、公表するのがベストだと判断されたんですね。

いずれにしても1人ではできない仕事ですので、周囲に状況を知っておいてもらう必要はあります。その上で蛭子さんのキャラクターなら、これまで通りタレントとして通用するのではないかと思ったんです。

公表する媒体はどのように決められたのですか?

「バス旅」で長年一緒にお世話になってきたプロデューサーが、医療バラエティ番組「主治医が見つかる診療所2時間スペシャル」を担当してくださったんです。この方が作る番組ならという信頼もありましたし、実際、とてもよい番組にしていただいたことに感謝しています。
認知症公表後の厳しい現実。仕事の激減と、救ってくれた「毒舌」の絆

番組の反響はいかがでしたか?

驚いた方は多かったようですが、「認知症と診断されたけど、蛭子さんは何も変わらないね」という声も多くいただきました。症状もまだ軽度でしたし、蛭子さんの様子から今後も変わらず仕事ができそうだと思ったのを覚えています。ただ、その見通しは少々甘かったなと思うこともあります。

甘かった、とは?

公表して以降、タレントとしての仕事が少なくなりましたね。というのも、やはり現場で何かあったらという思いはテレビ局側にはあったのかもしれません。

ほんの数ヶ月前まで、あんなにたくさんのバラエティ番組に出ていたのに。

バラエティ番組はなおさら、認知症当事者の蛭子さんをイジったりツッコんだりするのはやはり難しいという事情もあったかもしれません。公表してから蛭子さんがポロッと「周囲に気を遣われてるような気がして寂しい」と漏らしたこともありました。

バラエティ番組で認知症の当事者を扱うのはやはり難しいのでしょうか。

そんな中でも有吉弘行さんや東野幸治さんなどは番組に掛け合って呼んでくれましたし、前と変わらない毒舌トークに蛭子さんも嬉しそうにしていましたね。

「今の蛭子さん」と一緒に仕事をしたいという方もたくさんいたわけですね。

またNHKの不定期シリーズ「蛭子能収さんのお絵かき散歩」など、「今の蛭子さん」に合わせた演出を考えてくれる番組が現れたのも良かったなと思っています。テレビカメラが回ると適度な緊張感がいいのでしょうか、さっきまでぼんやりしていた蛭子さんが途端にピシッとするんですよ。

プロの顔に!

そうなんです。これには奥様も驚いていましたが、「さすが蛭子さんはお金が絡むと本気を出すね」などと笑い合ったのを覚えています(笑)。

マネージャー兼「介護経験者」として。森永真志さんが見つけた家族だけで抱え込まない“チームプレイ”の極意

タレントの仕事はマネージャーのサポートあって成立するものだと思いますが、認知症と診断されて以降、森永さんが工夫をしてきたことはありますか?

蛭子さんが働きやすい環境づくりは、それまで以上に意識するようになりましたね。たとえば稼働時間は、主治医のアドバイスで最も脳が活性する13〜17時の間に収めるように調整しました。また移動中には気分を盛り上げるために、蛭子さんの大好きな昔の歌謡曲を流したりしました。

公表後は自治体主催の認知症関連の講演など、それまでとは異なるジャンルの仕事にも挑まれてきました。

地方に呼ばれることもけっこうありましたね。長距離移動の時は、長年連載をしているサンデー毎日の編集者さんも付いてきてくれました。トイレの付き添いなど僕1人では手が回らない場面もあったので、とてもありがたかったです。

サンデー毎日の連載エッセイ「えびすごろく」も、公表以降も変わらず継続している1つです。

読者もご存知だとは思いますが、現在は編集者さんが口述筆記をする形で続けています。事務所も編集部も、みんなが「蛭子さんに稼がせてあげたい」という思いを共有したチームになっていますね。僕は父の認知症も経験しているのですが、チームプレイなくして介護は成り立たないと思います。

大事なのは家族だけで抱え込まないこと、ということでしょうか?

そうだと思います。両親は2人暮らしでしたので、僕も実家に戻ったのですが、家族が倒れないようにショートステイを利用するなど外部も巻き込んだチームを編成しました。蛭子さんの場合も同じで、奥様が倒れてしまったら「稼げなくなる」。だから僕らも精一杯サポートしますが、デイサービスなども積極的に活用しましょうと話し合っています。
優先順位は「ギャンブル」から「奥様」へ。認知症になって訪れた心境の変化

認知症を公表して以降、森永さんから見て「この仕事が実現してよかった」と思うものはありますか?

やはり東京・青山の画廊で開催した「蛭子能収 最後の展覧会」(2023年9月)です。どんなにタレントとして売れても、蛭子さんには「本業は漫画家」という矜持があったと思うんです。テレビの演出に一切文句を言わなかったのも、作り手へのリスペクトがあったからで、自分は「素材」に徹するという意識があったんじゃないかと会話の端々から感じていました。

一方で漫画やイラストは、自身のクリエイティブを発揮する場だったと。

はい。認知症になってからも、僕や編集者が「こんな絵を描いたらどうですか?」と口出ししても断固として譲りませんでした(笑)。漫画家になる前は映画監督を目指していた時代もありましたし、本質的にクリエイター気質なんだと思います。

同展覧会は漫画雑誌「ガロ」時代からの盟友である漫画家・根本敬さんの企画で実現。展示された全19作品の新作は30〜80万円で完売したそうですね。

はい、事務所に創作スペースを確保し、大作にも挑んでいました。制作の途中、ふと「もう描くの面倒くさいよ……」と筆が止まることもありました。でも、僕が横から「これ、ン十万円で売れますよ!」と声をかけると、途端に目がキラリと輝く(笑)。その瞬間だけは、認知症のことを忘れているかのようでしたね。
結果、展覧会は連日長蛇の列。仲のいい芸能人のみなさんもたくさん来場してくれて、蛭子さんも本当に嬉しそうにしていました。
展覧会での蛭子能収さん(写真提供:株式会社ファザーズ・コーポレーション)

「最後の展覧会」の大盛況の模様は、バラエティ番組「有吉クイズ」でも紹介されていました。ただ、気になるのが「最後の」というタイトルです。

そこはあくまで蛭子さんの意思を尊重したいと思っています。ただ、どうだろうな。以前の蛭子さんの優先順位は「仕事・ギャンブル・奥様」でしたが、今は「奥様」が圧倒的1位になっていますので。

それまではギャンブルのほうが奥様より上だったのですか(苦笑)。

誰に対しても腰が低い蛭子さんですが、九州男児でもあるためか、奥様には滅多に「ありがとう」と言わなかったんです。それこそ僕が「ありがとうの一言でお小遣いがもらえますよ」と言っても、「言えないんだよなあ」と頭をポリポリするばかりで。

目に浮かぶようです(笑)。

それが今では奥様に当たり前のように「ありがとう」と言うようになって。奥様もびっくりしていました。有吉さんにも「認知症になってやっと真人間になりましたね」と愛のあるツッコミをされていました(笑)。

最後に20年以上にわたってマネージャーとして寄り添い続けてきた森永さんにとって、蛭子さんとはどんな存在ですか?

蛭子さんは「友だち」と言ってくれるんです。半分仕事ではあったけれど、地方の競艇にもよく一緒に行きましたし、「勝った方がその日の夕飯を奢る」みたいなルールを決めたりと、楽しい時間をたくさん過ごしてきました。だけど、僕は蛭子さんのことを「友だち」なんておこがましくて言えないです。

かと言ってビジネスパートナーというのもしっくり来なさそうですね。

やはり「唯一無二の大切なタレント」という言葉以外にありません。蛭子さんは芸能界にもうちの会社にも多大な貢献をしてくれた功労者です。あんな稀有なキャラクターは二度と登場しないんじゃないかと思いますね。
認知症になったからといって、すべてを諦める必要はない。むしろ、その人の核にある「好き」や「欲望」こそが、明日を生きるエネルギーになる。
20年以上、最も近くで蛭子さんを見つめてきた森永さんの言葉には、綺麗事だけではない、確かな確信が宿っていました。
「お金が好き、ギャンブルが好き、そして何より奥様が好き」。 そんな蛭子さんの純粋な本能を、森永さんはこれからも職人技のようなマネジメントで守り続けていくのでしょう。たとえ昨日を忘れてしまっても、今日という日の『稼ぎ』と『笑い』があれば、人生は続いていく。二人の歩む道は、認知症と共に生きる私たちの未来を、少しだけ明るく照らしてくれているようでした。


