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脳科学者・恩蔵絢子先生が認知症介護で学んだ「失われない心」
更新日:2026-05-27

脳科学者・恩蔵絢子先生が認知症介護で学んだ「失われない心」

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恩蔵絢子先生
そのもの忘れ、年齢のせい?それともMCI?

「認知症になったら、今まで当たり前にできていたことができなくなっていく」。そんなイメージを多くの人が持っているのではないでしょうか。実は、脳科学者である恩蔵絢子先生も、かつてはその一人でした。

2015年、同居する母親がアルツハイマー型認知症と診断された恩蔵先生は、絶望の底に突き落とされました。しかしその後約8年に及ぶ母親の認知症介護の日々を通じて、認知症と人間そのものに対する考え方が根底から変わったといいます。

「その人らしさ」とは「何ができるか」ではなく「何を感じているか」にある――。
脳科学者と介護家族という2つの視点を持つ恩蔵先生に、お母様との日々や、認知症との向き合い方、その人らしさとは何かについてお話しを伺いました。

脳科学者の恩蔵絢子先生と母親の認知症介護|受診までの葛藤と苦悩


――お母様のもの忘れの変化に気づいてから、実際に診断を受けるまで約1年の葛藤があったそうですね。

恩蔵先生:それまでの母は「なんでもやってあげる」と言ってくれるような明るい人でした。それが、急に料理も家事もやりたがらなくなり、「どうしてたっけ」と頭に手を当てて立ち止まる姿が続くようになっていました……。

側にいる私たち家族が「認知症ではないか」と心配し始めても、当時は病院に行く一歩がどうしても踏み出せませんでした。「治せる薬もないのに、なぜ病院に行く必要があるのか」と、行かないことを正当化していたんです。

――脳科学の専門家である恩蔵さんでさえ、受診をためらうほどの不安があったんですね。

恩蔵先生:インターネットで「認知症」と検索すれば、まず目に入るのは嘘か本当かわからない情報や偏見、認知症は余命何年などといった心を折るような悲観的な情報ばかりでした。医学論文を調べても「進行性」「人格が変わる」という記述が続くだけで、情報の山をかきわけても、なかなか希望が見出せない……。脳のことを知っていても、病気は治せないということに一番傷つきました。私はなんのために勉強してきたんだろうと。

――認知症と確定してしまうことへの恐怖も大きかったのでしょうか。

恩蔵先生: 「認知症になると、最終的に家族を忘れてしまう」という、映画や小説の中で描かれてきたようなイメージしか持てなかったんです。だから診断を下されず、グレーなまま「ごまかせるうちはごまかしたい」と思って1年間を過ごしてしまいました。

でも、本当は怖くて仕方なかった。夜になると、この先どうなるのかという不安で、勝手に涙が出てくる時間がずっと続いていました。

――そこから受診を決意したきっかけは何だったのでしょうか。

恩蔵先生:母が大切にしていた合唱の発表会です。母はピアノの先生でもあり、初見で楽譜をスラスラ読めるほど音楽の素養が高い人でした。ところがその本番の舞台で、目の前に楽譜があるのに「今どこ?」と隣の人に囁いている母の姿が目に入ったんです。

それは、これまでの母だったら絶対にやらない行動でした。「これ以上はごまかせない」と覚悟を決め、父と話し合って病院へ行くことを決めました。

――受診を勧めた際、お母様はどのような反応をされましたか。

恩蔵先生:私に対しては、ものすごくはっきり「そんな必要はない」と。普段はしないような強い拒絶の言い方でした。よく「認知症の人は病気を否定する」と言われますが、母が否定したのは認知症だからではありません。「娘の前ではいつまでも誇らしい母でありたい」という、切実な願いからくる拒絶だったのだと、今なら分かります。

共著や対談をご一緒した若年性認知症の当事者である丹野智文さんも、「家族だからこそ言えないんだよ。当事者同士ならすごく話せるけれど」と仰っています。そうした「家族には言えない感情」は、認知症に限らず誰もが持っているものだと思うんです。

――家族だからこその難しさがあるのですね。どのようにして受診に繋げたのでしょうか。

恩蔵先生:母に直接言い続けるのではなく、まずはかかりつけの先生に事前にお話しに行きました。そして、インフルエンザの予防接種で病院に行った際、先生の方から「最近、記憶で不安なことはありませんか?」と自然に声をかけてもらったんです。

すると、あんなに拒絶していた母が、先生にはすごく素直に「不安があります」と打ち明けました。家族には言えなくても、第三者になら言えることがある。そのことを、身をもって知った瞬間でした。

脳画像を見て脳科学と認知症診断がつながった


――実際に認知症という診断を受けてからは、感情や考えに変化はありましたか。

恩蔵先生:病院で脳の画像を見せてもらった瞬間、少し語弊があるかもしれませんが、脳科学者として正直「それだけ?」と思ったんです。

――なぜそのように感じたのでしょうか。

恩蔵先生:診断を受けるまでの1年間、母が料理や家事をやらなくなっていくのを、私はただ「できなくなった」と見ていました。でも脳画像を前にして、萎縮しているのは脳のほんの一部だとわかったんです。

ダメージを受けている場所が特定されたことで、「そこを補えばいいんだ」というアイデアが次々と湧いてきました。長年の脳科学の研究が、その瞬間に一気につながった感覚がありました。

――具体的には、どのような「補い方」が見えてきたのですか。

恩蔵先生:母が料理をやらなくなっていたのは、記憶と空間学習能力を司る海馬が傷ついて「今、何をしているか」が途中でわからなくなってしまうからでした。だったら、私が横に立って声をかけて、その記憶を補うことができたらいい。それだけのことだったんです。

週に3日、一緒に台所に立つようにしたら、母はまた料理ができるようになりました。途中で手が止まっても、「今お味噌汁を作ってたよ」と私が横で言うだけで、「ああそうか、そうか」と言って包丁を握り直してくれる。症状が進んでからも、「じゃあトマトだけ切ってくれる?」と作業を切り出すことで、母の台所への関心は最後まで消えませんでした。

――あんなに怖かったはずの認知症の診断が、希望に変わったのですね。

恩蔵先生:診断のおかげで、母の状況が脳科学の知見と一気につながりました。帰り道にはもう、母と一緒に「やれること」が次々と頭に浮かんでくるようになっていたんです。

名前を忘れても「私」を忘れない。認知症介護で家族が見つけた「そのひとらしさ」認知的不協和


――認知症が進んでいく中で、お母様「らしさ」はどう変化しましたか。

恩蔵先生:実は、変わらなかったんです。最初の頃から怖かったのは、いつか私のことを忘れるということでした。でも実際はそうじゃなかった、ということを少しずつ発見していったんです」。2021年頃、海馬の萎縮が重度と言われた頃のことです。自分の名前を問われても、自ら答えられなくなっていました。でも病院の待合室で「恩蔵恵子さん」と呼ばれたら、「はい」とすっと立ち上がる。私の名前も、意識的に聞いたらごまかしたりするんです。ただそれは名前という単語(知識)が出てこないだけで、私を大切な娘として受け止める「心の温度」は少しも変わっていなかった。それは表情を見ていればわかりました。名前を忘れることと、その人を忘れることは、決してイコールではないのだと肌で感じた瞬間でした

――名前を忘れることと、その人を忘れることはイコールではない。そう確信できたのはなぜでしょうか。

恩蔵先生:私が「認知的不協和」という人間の認識の特徴を理解していたからだと思います。居心地の悪い状況に置かれると脳が、居心地の悪さを解消しようとして、適当な説明を作り出してしまう現象で、これは健康な若者にも普通に起こることです。だれでも、その場その場でごまかしてしまうことがある。娘の前で娘の名前が思い出せなければ気まずいからごまかすかもしれないけれど、その時ごまかしたからって、本当に忘れているとは限りません。だからこそ、母が自分の変化を認めず否定してきたことも、「認知症だから」ではなく「一人の人間として自然な反応」なのだと、脳科学者として理解できました。記憶を意識的に引き出すのに重要な脳部位と、記憶を保存している脳部位も違うんです。

それに、母から私への愛情は確かにそこにありました。愛情や自尊心、人の役に立ちたいという気持ちは、認知能力が完全には失われたりしないからこそ持てる、とても人間らしい高度な感情です。

――感情が最後まで残っているということは、認知能力もゼロになったわけではない、と。

恩蔵先生:はい。だから愛情が残っていて当然だと、腑に落ちたんです。

――お母様「らしさ」に改めて触れた、具体的なきっかけはあったのでしょうか。

恩蔵先生:NHKのドキュメンタリーがきっかけで「音楽療法」を知り、母にぜひお願いしたいと思ったんです。母は音楽が大好きでしたが、当時はもう自分から音楽室へ行くこともなくなっていましたから。

でも、音楽療法士さんが母の楽譜を見てピアノを弾き始めた瞬間、驚くべきことが起きたんです。まるでイントロクイズのように、母が完璧に歌い出したんですよ。次々と、私の知らない曲まで2人で楽しそうに。

――言葉は出にくくなっていても、歌は溢れてきたのですね。

恩蔵先生:はい。何十年も歌い続けてきた曲は、脳の深いところにしっかりと残っていました。私たちは勝手に「もうできない」と思い込んでいたけれど、その先にこんなに豊かな世界が広がっていた。母の場合は音楽でしたけど、その人がずっと大切にしてきたものの中に、輝きを取り戻すヒントが必ずあるのだと感じました。

実は私の中にずっと、「人間の認知的能力が下がっていったとしても、最後の状態は、果たして『ゼロ』なのだろうか?」という問いがあったんです。もし本当に何もなくなってしまうと確認されたなら、脳科学者として正直にそう報告するつもりでした。

――脳科学者としての冷徹な目で見ても、そこは「ゼロ」ではなかった。

恩蔵先生:でも全然、ゼロじゃなかった。皆が「何も残っていない」と思い込んでいる場所に、実はものすごく豊かな感情も認知能力も見つかったんです。「皆、欠落した能力ばかりを見て、この豊かな感情を見落としているんじゃないかな」って。

認知症では今までできていたことと比べて今はこれができなくなった、と「能力の物差し」だけで測ろうとすると、失われていくものばかりが目についてしまいます。でも、「感情の物差し」に持ち替えてみてください。すると、最後まで変わらずに残っているものがはっきりと見えてくる。それこそが、その人がその人である理由――「その人らしさ」なんだと思います。

同居する母親がアルツハイマー型認知症と診断された出来事について話す恩蔵先生

専門的な介護はプロに、家族は笑顔を。恩蔵絢子流の寄り添い方


――認知症介護の中で、行き詰まった時期もあったのでしょうか。

恩蔵先生:重度の認知症と言われてから行き詰まったことがありました。食事を終えるのに1時間以上かかるようになり、あらゆる方法を試しても上手くいかなくて。母のために心を砕きすぎて、私の感情が動かなくなってしまった時期がありました。

そんなとき、ケアマネジャーさんから思いがけない問いをいただいたんです。「必要じゃない言葉を使っていますか?」って。

――「必要じゃない言葉」とは、どういう意味だったのでしょう?

恩蔵先生:私も聞き返しました。するとその方は、母に向かって「恵子さん、このお花きれいですね」と話しかけたんです。そうしたら、それまで頑なに口を開かなかった母が、即座に「きれいね」と。さらにその方が「この色はピンクでしたっけ?」とわざととぼけて見せると、「なに言ってんの、赤じゃないの」と母が教えてくれたんです。

――指示や確認ではない言葉が、お母様の心を動かしたのですね。

恩蔵先生:そのとき気づいたんです。私はずっと「食べて」「座って」と、必要なことしか言っていなかった。上から指示され続け、何もできない人として扱われ続けた母の独り言は、いつしか「もうやだね」「もう逝きたいね」という言葉ばかりになっていました。

でも、気づいてからは変えられました。2人で楽しめる会話を軸にするだけで、それまで見えなかった母の豊かな気持ちが、再び見えるようになってきたんです。

――その気づきを経て、具体的な関わり方はどう変わりましたか。

恩蔵先生:象徴的だったのは、あるとき私が台所でお皿を割ってしまったときのことです。母が、その瞬間だけは驚くほど素早く動いてガラスを集め、「こういうことって誰にでもあるのよ、大丈夫よ」と言ったんです。

それを見て、ハッとしました。母は、自分が失敗したときに、私にこう言ってほしかったんだなと。自分の失敗を恥ずかしく思っているから、他人が失敗したときには優しくしなければとすぐに動くことができる。本当に母はいろんなことを感じながら、一生懸命生きてくれているんだなと思いました。これまでは能力がないと思い込んで、活躍する場を奪ってしまっていただけだったんです。

――家族としての「役割」についても、考え方に変化があったのでしょうか。

恩蔵先生:専門的な介助はプロにお任せして、家族にしかできない領域にこそ力を使う。そういう考え方をしてもいいのかもしれないと思い至りました。
1日1分でもいいから、2人で笑える時間を持つこと。その人の好きなことを一緒に楽しむこと。それこそが、家族の本当の役割なのだと、認知症介護を通じて学びました。

認知症の母と家族が、お互いに「安全基地」となる介護の未来

――お母様が亡くなられて数年経った今、振り返ってどのようなことを感じていらっしゃいますか。

恩蔵先生:もう認知症かどうかは関係なく、母は私にとっての「安全基地」だったんだ、ということが一番に浮かびます。ただただ、生きていてほしかったな、と。

一つ反省として残っているのは、母を認知症当事者の方々と会わせてあげたかったということです。家族には言えないことも、当事者同士ならすんなり話せることがありますから。もっとそういう場を作ってあげられていたら、という想いは今もあります。

――恩蔵さんが考える「安全基地」とは、具体的にどのような状態を指すのでしょうか。

恩蔵先生:「失敗しても帰れる場所」のことです。失敗してもいいよと言ってくれて、肝心なときに見守ってくれる存在。私にとって、母も父もそうでした。たとえば、新しい場所で上手くいかなかったとしても、「家に帰れば『しょうがなかったね』と笑って受け入れてくれる」と思えるから、私は安心して冒険ができるんです。

これは子どもに関する研究から生まれた概念ですが、すべての人間に必要なものです。ただ、大切な人だからこそ守りたくて過保護になってしまうし、逆に突き放しすぎることもある。安全基地はその真ん中の、絶妙な距離感のこと。これはものすごく難しいことで、誰もがつまずいて当然なんです。

――恩蔵さんご自身もお母様が安全基地だったとおっしゃっていましたが、それはお互いに、ということでしょうか。

恩蔵先生:そうなんです。母も私の安全基地だったし、私も母の安全基地だったと思っています。それは家族に限らず……介護職や看護職で生き生きと働いている方たちに共通することがあって。そういう方たちは、相手からなにかを受け取っているのだろうと思います。一方的にやってあげるのではなく、お互いに安全基地になっている。

近著『感情労働の未来』でも探求したテーマですが、介護や看護は感情をフルに使う仕事だからこそ、一方的では疲弊してしまう。お互いにリスペクトし合える関係の中にこそ、誇りとやりがいが生まれると思います。

――最後に、認知症のご家族と向き合っている読者へのメッセージをお願いします。

恩蔵先生:まず家族が認知症になったとしたら、いままでとの違いに戸惑うのは当然で、どうしたらいいのか考え直していくのは「難しくて当然」だと言いたいです。お互いの安全基地になるにはどうすればいいのか、私自身もまだ答えを探している最中ですから。でも、難しいからこそ社会全体で考えていきたい。

認知症になったときに、絶望だけでなく希望の持てる情報がちゃんと届く社会にしたいんです。言葉を喋らなくなったからといって、その人の表現する力が消えたわけではありません。私たちが勝手に引いていた限界の、その先にある豊かさを、もっと一緒に見ていきたいと思っています。

認知症は「失っていくだけの病気」ではない――母との10年の日々が、それを教えてくれました。脳科学者として、そして娘として語る恩蔵先生の言葉は、認知症介護に向き合うすべての人への、静かで力強いエールとなっています。

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