在宅の認知症・MCI(軽度認知障害)の高齢者の購買力は、2050年には17兆円規模に成長すると推計されています(※1)。これまで超高齢社会における「買い物困難」という課題は、「高齢者支援」という側面が強調されてきましたが、今後は新たな市場を獲得するための経営戦略として捉え直すことも可能かもしれません。
その際、重要になるのが「スローショッピング」という考え方だと、スローショッピング・ジャパン事務局代表の田中美帆さんは主張します。では、スローショッピングとは何なのでしょうか? その社会的意義と経済的可能性について田中さんが解説します。
(この記事は、2025年12月11日に開催された講演会『スローショッピングが実現するウェルビーイングと、みんなにやさしい市場活性化』の内容をテキスト化したものです。)
田中美帆:こんにちは。スローショッピング・ジャパン事務局の代表を務めている田中と申します。私はふだん多摩美術大学で「ソーシャルデザイン」に関する授業を担当しており、社会課題をデザインの力で解決していく方法論について、デザイナーさんたちに指導しています。と同時に、その実践の場として、株式会社cocoroeという会社を立ち上げまして、さまざまな企業・行政の方々と一緒にソーシャルデザインの実装を試みています。
今回は、日本でこれから普及していく「スローショッピング」について、お話しさせていただきたいと思います。
そもそもスローショッピングとはどのようなフレームワークなのか? そして認知症・MCI(軽度認知障害)の当事者のための店舗づくり、ひいては社会づくりが、日本経済にどれほどのインパクトを与えるのか? 慶應義塾大学の堀田聰子先生、日本総合研究所の高橋光進さんとともに考えていきたいと思います。
イギリスの大手小売チェーン店で導入される「スローショッピング」とは?
田中美帆:スローショッピングの魅力は、何といっても大きな設備投資を必要とせず、小さな工夫を積み重ねることで、認知症・MCIの当事者や高齢の方に優しい店舗空間を作り出すことができる点にあります。簡単に定義すると「どんなお客様でも安心して、ご自身のペースでゆっくりお買い物ができるお店づくり」ということになります。
このスローショッピングという考え方を提唱して、イギリスの大手スーパーマーケットなどに導入してきたのが、キャサリン・ベロさんという方です。ご自身も認知症の母親を介護した経験があり、2015年にスローショッピングのプログラムを開発して、今ではスーパーマーケットの他、金融機関、飲食業など多くの業態で採用されるようになっています。
イギリスのスローショッピング創設者キャサリン・ベロさん
私がキャサリンさんに最初にお会いしたのは、多摩美術大学の授業の中でグッドケーススタディとして、スローショッピングの事例を紹介するため、2018年11月に現地取材に行ったときでした。キャサリンさんはイギリスで日本の「KUMON(公文)」の先生をしていた経験もあり、日本贔屓ということもあって、暖かく迎え入れていただきました。
スローショッピング・ジャパン事務局の田中さん
2018年の当時から、すでにイギリスの大手小売チェーンでは、スローショッピングが導入されていました。例えば、セインズベリー(Sainsbury's)、ウェイトローズ(Waitrose)、マークス&スペンサー (Marks & Spencer)、さらに現地のイケア(IKEA)などでも導入されています。
私はキャサリンさんにご案内いただき、サマセット州にあるバースという町のウェイトローズで初めてスローショッピングの様子を拝見しました。その店では週1回、毎週火曜日の10時から12時までをスローショッピングの時間として設定しています。近隣の住民たちにも周知されているので、その時間になると高齢のお客さんがたくさん集まってきます。オープン直後からおじいちゃんおばあちゃんたちが続々と来店されて、店員さんたちと会話をしながらお買い物を楽しむという賑やかな時間が流れていました。
例えば、売り場のいろいろなところに椅子が置いてあります。商品棚の両脇には必ず椅子があって、とにかく店内のいたるところに椅子が設置されていました。私が視察したときは、まるでカフェのように、おばあちゃんたちが1時間以上座っておしゃべりしていました。
英国スーパーマーケット「ウェイトローズ」のスローショッピング
店内BGMとレジ音を止めるだけでも、かなりの効果があると話す店長
ウェイトローズの店長がおっしゃっていたのは、「店内のBGMを止め、レジの音も止めて、とにかく静かでシーンとした環境の中でお買い物していただくことが、お客様の心を落ち着かせて、お買い物を楽しんでいただけるコツだ」ということでした。
たしかに通常の売り場には、いろいろな刺激があるんですよね。日本のスーパーマーケットやコンビニを思い浮かべていただければと思いますが、音だけではなくて色とか照明とか、とにかくさまざまな情報があって刺激になる。刺激のない静かな空間は認知症の当事者に限らず、精神疾患をお持ちの方、高齢の方にも優しいということで、いかにその刺激を統制していくのかが、スローショッピングの工夫のしどころになると教わりました。
一般的なスーパーマーケットですと、レジで急かされたり、クレジットカードの暗証番号が突然分からなくなって困ったり、高齢になるといろいろと嫌なことが起きることがあります。そうすると「もうショッピングに行きたくない」と思ってしまう方も出てきてしまいます。これは店舗にとっては不利益です。
認知症になると外出を控えるようになる方も少なくありませんが、スローショッピングの時間内だったら行こうかなと足を運んでくださる。さらに、そもそもお客さんが少なかった時間帯にスローショッピングの時間を設定しているので、来店が増えて店舗にとって嬉しいという、Win-Winの関係だと教わりました。
しかも、スローショッピングの素晴らしいところは、予算をかけて大きな設備投資をするという発想ではなくて、なるべくお金をかけずに、小さな工夫を積み重ねることで、認知症・MCIの当事者に優しい、高齢の方に優しい空間を作るという考え方が根底にある点です。
例えば、コミュニケーションの仕方ですとか、お客様が店員さんの顔全体を見られるように立つとか、お客様の言葉を共感と配慮を持って注意深く傾聴するとか、そういった点が重要なポイントになっています。
ほとんど視力のない高齢の方がBGMのない状況で買い物をする様子
スローショッピングがもたらす経営メリットと地域連携
スローショッピングがもたらす効果は、来客数や売上だけでなく、店員のエンゲージメント向上にもつながっています。
お客様一人ひとりが安心して買い物できるようにするには、店員一人ひとりが主体的に考えて行動することが大事になってきます。どういうことをどうやれば高齢者の皆さんが安心できるのか考えて、こういう風にやってみようと主体的に設計する。その結果、ものすごく感謝されると、モチベーションも上がり、仕事に誇りを持つようになる。そして、学びにも力が入って、退職者も減るというように、エンゲージメントが高まっています。

イギリスの大手スーパーマーケットでの実績から、スローショッピング導入のメリットには、経営面と社会貢献面の2つが挙げられます。
企業目線では、先ほどもお話したような来店客数と売上の増加。新たな顧客開拓にもつながり、従業員のモチベーション向上、エンゲージメント向上にも寄与します。また、企業の社会的責任(CSR)や、ダイバーシティ&インクルージョン(I&D)の目標達成、ESG評価の向上にもつながります。
社会貢献の面では、超高齢社会の課題解決として、高齢者や障害のある方々が社会参加できる機会を提供し、例えば、骨折、妊娠、がん、知的障害、精神疾患など多様なニーズを持つ人々に恩恵を与えます。

キャサリンさんの取り組みは、スーパーマーケットだけに留まらず、街全体のつながりを意識した活動でもあります。 バースという町には、ローマ風呂の遺跡があって世界遺産の都市になっているので、世界中から高齢の観光客もいらっしゃいます。観光客にも優しい街づくりをバース全体で目指していて、バース大学と地元のチャリティ財団が連携したりしています。
イギリスではバース以外の、例えば、ニューキャッスルという北部の都市でも、スローショッピングが導入され、街全体で認知症・MCIに優しい社会を目指しています。グレンジャーマーケットという、大きなアーケードの中に個人商店が約160軒も連なっていて歴史的な屋内市場もその一つです。スーパーマーケットのウェイトローズなどとはまた違って、地元の人や観光客が買い物をしたり、ご飯を食べたりできる個人商店の集まりです。それぞれのお店に顧客がいてコミュニケーションが成立してるので、市場全体で放送を止める時間などを決めながら、アーケード全体でスローショッピングを実施しています。全体的に認知症に優しい市場になるよう、面になることを意識した活動になっています。
英国ニューカッスルの中心地にある、グレンジャーマーケット
ニューキャッスルでは、金融機関のニューカッスル・ビルディング・ソサエティもスローショッピングを実施しています。例えば、大事な書類にサインする際、白い机に白い紙が置いてあると、どこからどこまでが紙なのかわからなかったりするのでカラーシートを用いたり、ペンが細くて握りにくいという方のために、太くて握る形のペンを準備していたり、拡大鏡が最初から準備してあったり、さまざまな工夫がなされています。
金融機関「ニューカッスル・ビルディング・ソサエティ」では、書類サインに様々な工夫をしている。
日本のスーパーやコンビニでスローショッピングを普及するための原則と工夫
私はおよそ7年前から大学の授業や社会人向けの特別講義で、以上のようなイギリスにおけるスローショッピングの取り組みを紹介してきたわけなのですが、本当にみなさんからのウケが良いんですね。「これは素晴らしい取り組みだ」「なんで日本でやらないのか」と。そうした日本での反応はキャサリンさんにも共有してきたのですが、私自身はただ授業で紹介するだけの立場でした。
ところが2025年から、私自身がスローショッピングの活動を日本で広めていく役割を担うことになりました。いろいろな方々のご支援もあって、東京都世田谷区の経済産業部から助成金をいただけることになり、「スローショッピング・ジャパン事務局」を立ち上げました。そして、これから日本国内でスローショッピングの取り組みを普及していこうという決起集会が、本日のこのイベントというわけです。
私はもともとプロのデザイナーでもあるので、キャサリンさんの考え方をもとに、サービスデザインとコミュニケーションデザインの観点から、分かりやすい仕組みを日本に根付かせていければと思っています。
私たちが提唱するスローショッピングは、イギリス発祥のフレームワークですが、日本では、まだスローショッピングという言葉の知名度がほとんどないこともあり、キャサリンさんと相談しながら、日本のスーパーやコンビニで普及していくために日本流の考え方にアレンジして整理しています。
それが次に紹介する「スローショッピング3つの原則」と「店舗環境に求める3つの工夫」です。非常にシンプルに分かりやすくしています。
スローショッピング3つの原則

スローショッピングの3つの原則の1つ目は「さりげないサポート」です。スローショッピングに来た時に「私は認知症です」などと自己申告しなくても、誰にとっても開かれている空間で、さりげないサポートができる環境を原則としています。
2つ目は「企業の柔軟な協力」。1社だけが点で頑張るのではなく、面で地域全体でつながっていくという柔軟な発想です。先ほどグレンジャーマーケットの例をご覧いただきましたが、1社だけで頑張るではなくて、面でその地域全体でつながっていく柔軟な発想を原則としています。
3つ目は「利用者を尊重」。誰もが自分らしく快適に自信を持ってお買い物ができるように、利用者一人ひとりの主体的な意思を尊重していきます。店員さんの対応やコミュニケーションの仕方に重点を置いた環境づくりです。
店舗環境に求める3つの工夫
「店舗環境に求める3つの工夫」の1つ目は「決まった時間に実施」することです。イギリスのウェイトローズでもグレンジャーマーケットでも、火曜日の何時から何時までと大体2時間ぐらいで時間を決めて実施しています。客足が減る時間帯にスローショッピングの時間を差し込み、来店を促進するということです。
2つ目は「刺激のない安心できる空間」です。認知症・MCIの当事者が、尊厳と自立を持って買い物を楽しめる包容的な環境を作るため、五感に着目し、誰もが自分のペースで過ごせる時間を提供します。
3つ目は「思い入れのある接客」です。落ち着いた態度と敬意を持った接客をおこないます。
そして、3つの工夫のそれぞれについて、スタッフトレーニングとしてチェックリスト(全85項目)を作成しています。例えば「決まった時間に実施」のカテゴリーでは、「スローショッピングの時間帯にお客様を歓迎するためのスタッフを配置できますか?」とか、「刺激のない安心できる空間」の項目では、「店内に座席を設置することを検討しましたか?」とか「その椅子はひじ掛け付きのものはありませんか?」などがあります。
「思いやりのある接客」の項目では、「お客様があなたの顔全体を見られるように立っていますか?」とか「お客様の言葉を共感と配慮を持って注意深く聞いていますか?」といったチェック項目を盛り込んでいます。
ただ、こうしたルールは、一律に守っていただくものではなく、基準は一応あるんですけども、お店の環境も含めて、「現場のスタッフと一緒に考えるため」のチェックリストになっています。
認知症・MCIの当事者を病院・介護施設でなく「近所のスーパー」で見守る未来にしたい
ということで、スローショッピングについて紹介させていただきましたが、日本ではまだスローショッピングという言葉自体、聞きなれない人がほとんどです。私の知人も「ECの一種?」というようなことを言っていました(笑)。
日本のスーパーやコンビニでスローショッピングを社会実装していくにあたっては、さまざまなステークホルダーの方々と一緒に取り組む必要があり、未来のビジョンを共通認識として持たなければいけないと思っています。
そこで私たちは、20年後にスローショッピングが普及している社会は一体どんなんだろうっていうのをイメージしやすいようにイラストで可視化しております。
スローショッピング 2025 ビジョン。他の人と料理をしたり、運動をしたり、近隣の人達と交流したりする、買物の未来を描いている。
例えば、お客様を店舗に運ぶ自動運転のコミュニティバスは当たり前にあるだろうとか、過去の買い物の記録から過剰な再購入を防げるようにするとか、手話を翻訳できるデバイスがあるとか、そんな社会になってるんじゃないかと想像しています。
さらに、スーパーマーケットは買い物するだけの場所ではなくなっていて、新鮮な野菜を一緒に選んで、その選ぶプロセスが楽しい、そして、その場で一緒に調理して食べられる売り場も登場するんじゃないか。イオンさんのように緑豊かな店舗がもっと増えて、芝生でヨガや太極拳を一緒に楽しめるアクティビティも普通になっているんじゃないかとか。
こうなったら素敵だなって思う未来の姿をビジュアルにしていて、さまざまな業界からフィードバックをいただきながら、日本でスローショッピングを柔軟に進めていきたいと思っております。
認知症・MCIの当事者や高齢者の方を見守る地域の協力体制が、病院や介護施設だけじゃなくて、近所のスーパーマーケットでも可能な社会になったら本当に素晴らしいな、そうなったら私自身も安心して年を取れるなと思っております。
ご清聴ありがとうございました。
※1「認知症1200万人時代へ。ともに生きる社会における市場の可能性とは?」株式会社日本総合研究所より(最終閲覧日:2026年3月27日)


