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父と子のきずなを深めた認知症【安藤昌教】
更新日:2026-03-12

父と子のきずなを深めた認知症【安藤昌教】

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安藤昌教さんの父と子の記念写真

「今年の年末年始は親の介護に専念したいので会いに行けそうもない、ごめん」

年末に友だちからそんな連絡をもらった。

僕たちはもう10年以上、毎年正月に集まっている。その年の目標となる一字を決めてワイワイと飲みながら書初めをするためだ。普段はみんな離れた場所で生活しているため、リアルで会うのは一年に一度か二度、そのうちの一度がこの正月の書初めなのである。

部屋で乾かしている正月の書初め

彼が書初めをしに来なかったのは、ここ10年の間ではじめてのことだった。

聞くと彼のお母さんが認知症と診断され、少しずつではあるが病状が進行しているのだという。介護するお父さんも80歳を超えていて、恒常的に人手が足りずに困っているようだ。

それは確かに書初めどころではないだろう。今は少しでもご両親のそばにいて、一緒の時間と記憶を積み重ねてほしい。できる限りお父さんの手助けをしてほしい。何か僕らに手伝えることがあれば気軽に声をかけてくれよな、と伝えて、その日はやりとりを終えた。

そんなこともあって、年末年始には彼と彼のご両親のことを考えていた。自分の両親のことと重ね合わせたりしながら。

ここ数年、似たような話題が増えているように思う。僕の父も数年前に認知症と診断されてから、入退院を繰り返した後、3年前に他界した。

同じような境遇の友を呼び寄せているのか、それとも似たような話はこれまでもあったのだが、僕が自分の境遇と重ね合わせて敏感に拾い上げているだけなのか。

***

父の話をしたい。

僕の父は公務員だった。

仕事をしていた頃の父は、毎日朝7時40分に家を出て、夕方は18時過ぎに帰ってきていた。30年以上経ったいまでも当時の父の生活リズムを覚えているほど、父の日常は時間通りだった。

そんなキッチリした父だが、休みの日にはだいたい昼まで寝ていた。外に出かけることが嫌いで、夏休みに母の実家に帰省する以外、泊りがけで旅行に行ったという記憶がない。

派手に金を使うこともなく(父はずっと軽自動車に乗っていた)、酒もたばこもギャンブルもやらなかった。休日に公園で息子とサッカーをして帰りにパーッと焼肉に行って、みたいな人ではなかった。

そんな父も職場では

「偉い人としてみんなから尊敬されていたのよ」

母はよくそう言っていた。

安藤さんとお父様が並んだ写真

父がどんな仕事をしていたのか僕は正直よく知らないのだが、父のことだから、職場では実際に「偉い人」だったのだろう。

世間体をとにかく気にする人だったので、周囲からの人望が厚かっただろうことは想像できる。

家での父は、僕の成績やら態度についての小言を言うことはあっても自分の話をすることはめったになかったので、僕の知る父は、いつもつまらなそうな顔をしてごろ寝していたイメージしかない。

男はだまって仕事さえしていればいいのだ。そういう時代だったのだろう。真面目に働いてさえいれば会社が家族もろとも守ってくれる。将来に対する安心感が土台となって、世の中を支えていたのだ。

そんな時代を生き抜いてきた世代がいままさに高齢者と呼ばれる世代になり、別の不安と直面している。

僕自身が親となり、一緒に暮らしていた頃の父の年齢に近づいてきた今、定年後の暮らしについて、父がどんな想像をしていたのかを以前よりもリアルに考えられるようになった。

自分の存在意義そのものとも言える「仕事」に、行かなくてもよくなるのだ。

家族からすると、いままであんなに仕事仕事で頑張ってきたんだから、これからは悠々自適に好きなことして過ごしてくれたらいいよ、くらいにしか思っていなかったのだけれど、父にとってはおそらく逆で、自分の居場所を失う恐怖と不安にさいなまれていたのではないだろうか。

父は実際、退職してからとくに何をするでもなくぼんやりと日々を過ごし、そのうちに認知症を患うことになる。

***

僕の話をしたい。

僕は高校を卒業するまでの18年間を愛知県にある実家で両親とともに過ごした。

よくある話だが、中学校くらいまでは賢い子として学校でも家でも褒められることが多かった。そんな優等生にも人並みに反抗期は訪れる。

高校では部活とバンド、それから異性交遊(そんな言い方は今しないですよね)に明け暮れたことで成績はみるみる落ち込み、第一志望の大学にはおよそ届かないまま、いろいろあって地方の大学へと進学した。

なりたい職業も行きたい学校も学びたいこともとくになかった。そんなことよりとにかく実家を離れて一人暮らしがしたかった。

どうしてそんなに家を出たかったのか。今となってはよく思い出せないのだけれど、真面目に大切に育ててもらったことへの反発だったのかもしれない。

不良少年が出てくるドラマなんかを見ると(当時はそういうドラマがたくさんあったんです)、親に口ごたえひとつしてこなかった自分を恥ずかしく思ったものだ。当時の僕は、親の気持ちなんて何もわかっちゃいなかった。

僕にも姉にも、名前の一文字に「教」という文字が入っている。これは父が教師という職業に対して絶対的な信頼を置いていたためだろう。

人から尊敬される職業に就きなさい、それが生きる意味だし幸せというものなのだ。

父の持つ教育方針はこれに尽きた。僕たち家族は、そんな父に歯向かうことは許されなかった。これもまた昭和の家族関係である。

そのかいあってか姉は地元の大学を卒業してきっちり教師となり、父に反抗ばかりしていた僕は、国の研究機関へ就職し、その後いくつかの職を経て、去年の春から高校で物理を教えている。

つまり二人とも父の望み通り教師になったわけだ。やはり育てられた環境というのは人間を形成する上で大きな要素となるのだろうか。

***

「父の様子がおかしい」

最初に父の異変に気づいたのは実家の近くに暮らす姉だった。今になって思えば僕も、その頃にはなんとなく父の様子に違和感を感じていた。

たとえば電話口での父が、なぜかいつも敬語だったりするのだ。

「ご苦労様です。お忙しいですか」

冗談を言うような人ではない。最初は照れ隠しに敬語で話しているのかと思っていた。

「今年はね、夏があっつ過ぎてあかんですわ。お体にはお互い気を付けてもらってですね」

ん? まあそうなんだけどさ、どうしたの父さん。

こうした小さな違和感がいくつも重なると、僕たち家族は徐々に不安になっていく。

お父さんボケはじめたんじゃないの?

そんな話をしても母は「あんなに几帳面だったお父さんに限ってボケるなんてことはありえないでしょう」と一蹴した。しかし父といつも一緒にいた母が、父の異変に気づいていなかったわけはないのである。

公園で撮影した安藤さんのお父様の横顔

最初は僕と姉とで母にお願いし、父に健康診断のついでに「もの忘れ外来」というところで簡単な診察を受けてもらうことにした。

これには父もだが、どちらかというと母からの抵抗が大きかったように思う。なにより世間体を気にする家なのだ。もの忘れ外来なんてところを受診しているのを人に見られたら恥ずかしい、そう思っていたのではないだろうか。

結果、父には、初期ではあるが認知症の症状が認められる、という診断だった。

家族からしたら「やはりか」という思いだったわけだが、はっきり診断されたことで「認知症」という病気が実体をもって家族の間に入り込んできた。

とはいえ、その後も何年か、両親はそれまで通り、おだやかに二人で暮らしていたように思う。

僕は年に何度か実家に顔を出す程度だったのだが、父は母とたまに日帰りの旅行に行ったりもしていたらしい。まるであの診断は誤診だったと自分たちに言い聞かせるように。

今となっては何を言っても遅いのだが、この時期になんの対策もしなかったことが、その後の父の認知症の進行を加速させたということはなかっただろうか。

本人のプライドと家族の遠慮と、その他いろいろな意思が混じり合い、家族の中に真空の状態を作り出していた。そんな風にみんなで気をつかい合って、父の認知症のことをあえて話題にのぼらせないようにしていたのだ。

みんなやっぱり怖かったんだと思う。

***

母の話をしたい。

少年時代の僕にとって、母はすべてだった。

先にも書いたように、当時の父は仕事を中心とした生活をしていて、家に帰っても家事や子育てなんかにはとくに興味がないように見えた。これは当時がそういう時代だったということで許してあげてほしいのだが、そうなると自然と愛情を求めるのは母へ、ということになる。

子どもの頃の僕は、周りのみんなと同じように、学校から帰ると同時に家を飛び出し、友だちと公園を走り回ったりしていたのだけれど、実は母と家でお菓子でも食べながら話をしている方が好きだった。母は他の家の「おばさん」に比べても綺麗だと思っていたし、なにより僕たち子どもを甘やかしてくれた。

母は若いころに田舎から愛知へ集団就職で出てきて、そこで父と出会った。

当時のことはよくわからないが、いまの僕らからすると、結婚してからの父と母の暮らしは十分以上に恵まれたものだったのではないかと思う。互いに真面目に仕事をし、家庭を持ち、ぜいたくはできないなりにも、僕たち家族は生活に困るというようなことはなかった。

母はよく「こうやって幸せに暮らしていられるのもお父さんのおかげなんだからね」と、僕たちに言っていた。

僕は当時、母の言う意味がよくわかっていなかった。だって僕たちを育ててくれているのはお母さんではないか。お父さんなんてほとんど家にいないんだし、いたとしてもごろ寝してるだけだ。

「そんなこと言っちゃいけないよ。お父さんは家族のために働いてくれてるんだから。」

母の言わんとするところがわかるようになってきたのは、僕が就職して結婚し、家族を持ってからのことだった。

今となっては想像するしかないのだが、きっと父は極端に口下手だったのだろう。そのために家族に対する愛情を直接的に表現することができなかった。そんな父のことを理解して一人奮闘し、家族をつなぎとめていたのは母だったのだ。

***

最近の母は、ことあるごとに自分のことを責めるようなことを言うようになった。

「わたしがなにもできないからお父さんはボケたのかもね」
「全部わたしが悪いんだわきっと」

思えば父も母も、あまり社交的な人柄ではなかった。二人でともに依存し合い、家の中にだけ安心できる居場所を見出していたように思う。ともに支え合ってきたうちの一人である父が認知症を患ったことで、母にとっては自分の居場所そのものが足もとから崩れていくような不安を感じたことだろう。その責任もまた、母は一人で背負い込もうとしているのだ。

***

父が認知症を患ってから、わが家の雰囲気は徐々に変化していった。

家族の誰かが病気になれば、それは環境も雰囲気も変わるのが当たり前なのかもしれないが、認知症はちょっと他の病気とは違うと思う。

この先どうなるのか、この状態がいつまで続くのか。不安が家の中を満たしていくようだった。足もとから音もなくせり上がってきた寒さが、気づかないうちに体全体を冷やしてしまうような、そんな恐ろしさ。

認知症は、急激にではないものの、少しずつ確実に、僕たちの幸せな日常を容赦なくからめとっていった。

***

認知症は防げるのか

そもそも父はなぜ認知症を患ったのだろうか。

父が認知症と診断されてから、僕なりにいろいろな情報をあたり、それをもとに考えてみた。

父が認知症を患ったことには原因のようなもの、つまり父の生活の中に認知症が入り込む余地があったのではないだろうか。だとしたらそれを明らかにしてその逆を行くことで、認知症を遠ざけることができるのかもしれない。

父の生活を振り返ったうえで、いま僕が心がけていることを挙げてみたい。認知症にもさまざまなタイプがあるので一概には言えないようだが、僕が個人的に意識していることだ。

①趣味を持つこと

父には趣味がなかった。

団塊の世代の社会人にとっては仕事が趣味のようなものだったのかもしれないが、趣味というのは人生を豊かにしてくれる。団塊ジュニア世代の僕なんかは心からそう思う。そして趣味は人と会う機会を増やすし、それにより友だちも増やしてくれる。

どこかの国の研究で、老後は金なんかよりも、同じ志を持つコミュニティーの中で頼り頼られ生きていくのがなによりの幸福である、というような調査結果を読んだことがある。幸福な気持ちというのは、きっと病気をも遠ざけてくれるのではないか。

②考えること

父はテレビが好きだった。

家のリビングではほとんど一日中テレビがついていた。好きな番組は相撲、それからニュース。あとはべつになんでもいいからつけてある、といった感じだった。政治に関するニュースには、よく鼻をほじりながら悪態をついていた。

父がテレビを観ているところを撮影した

これも時代なのかもしれないが、僕が今住んでいる家にはテレビがない(それでも受信料だけは払っているので偉いと思う)。これは父への反動というだけでなく、単にテレビは時間を消費しすぎると思ったからだ。

代わりに音楽を聞くこと、本を読むこと、映画を見ること。できるだけ感動することに時間を割くようにしている。

それから、受け取った情報をもとに自分の頭で考えること。考えるというのは実はとても面倒くさいことなのだけれど、運動しないと体が衰えるように、頭を使わないとやはり脳も衰えると思うのだ。

③体を動かすこと

父は運動をしなかった。

やはりすべての基本は体力だと思う。人に会うにも本を読むにも、集中して考えるのにだって体力が要る。できるだけ体を動かして体力をキープしておきたい。

とはいえ僕もあの頃の父と同じような年代にさしかかっているのだ。正直しんどい。寝ても疲れが取れない日があるし、腰だって痛いような気がする。それでもなるべく毎日歩いたり走ったりするようにしているのは、自分の体が衰えていくことで、認知症のやつに入り込む隙を与えることへの恐怖なのかもしれない。

教師になるということ

僕は去年から教師になったという話をさっき書いた。それが父の望んだ職業だったことは確かなのだけれど、僕が教師になったことには別の意味で父のことが影響している。

先にも書いたが、父が認知症を患った理由について考えたとき、すべての因子の逆を行くのが教師という職業だと思うのだ。

人と会うこと。感動すること。頭と体を使うこと。教師という職業には、これらすべてが必要とされる。ということは僕はいま父と真逆の生活をしているということであり、それは結果的に認知症を遠ざけることにつながっているのではないか。

実際にこれがどれほど功を奏するのかはわからないし、もしかしたら父より早い段階で病においつかれるのかもしれない。そうなったらそうなったときだが、その時に(ああ、あのとき)と後悔したくはないのである。

***

父の話に戻りたい。

認知症と診断されてからの父は少しずつ穏やかになっていった。

僕がまだ同じ家で暮らしていた頃は、何かにつけて小言ばかりを口にしていた父が、いまでは首をちんまりと前に傾け、口元に小さな笑みを浮かべているようになった。

認知症と診断されてから食べさせてもらっている場面

この変化が認知症によるものだと僕も母もわかってはいたはずなのだけれど、それでも母は、「おとうさんが最近やさしい」「ずいぶん丸くなった」と嬉しそうに話していた。

あれは母の気丈な一面だったのか。それとも二人の間には僕なんかにはわからないコミュニケーションの領域があったのだろうか。

父の患った認知症は「レビー小体型認知症」というものだった。妄想や幻聴を伴うことが多いタイプの認知症なのだという。

そういえばあの頃の父は、よく独り言をつぶやいていた。独り言というか、あたかも自分がいま職場にいて、部屋に入ってきた僕を部下だと思い込んで話始めるなんてことがよくあった。

「新年度が始まったら時間が無くなるんだから、今のうちにやっとかなあかんぞ」
「資料はわかりやすいようにまとめておいてな」

うむ。

前に母が言っていたように、父は職場で多くの部下を持ち、責任ある立場で仕事をしていたのだろう。

父の見ていたであろう妄想から、職場での父をはじめて想像することができたわけだ。本当にかっこよかったんだな、父よ。

進行するレビー小体型認知症の症状

言動に多少の違和感はあるものの、自分で身の回りのことはたいていできるし、母の言うように確かに父の性格は穏やかになった。これが認知症という病気なのだとしたら、これはこれで同居できなくもないし、むしろ悪くないのではないか。

父が初期の認知症と診断されて一年ほど、わが家は父の変化に少しずつ慣れていった。

しかしある日、母から受けた一本の電話で僕たちの家の平穏は粉々に、文字通り粉砕されることになる。

「父が一人でどこかに行ってしまったの」

父と母はこれまでも、近所の公園や神社までふたりで歩いたり、母の運転する車で近所のスーパーまで買い物に行ったりしていた。

しかし最近の父は、出先でも目を離すと一人でどこかに行ってしまうことがあったのだという。いつもならば母が近くでぼんやりしている父を見つけて手を引いて帰ってきていたのだが、この日は違った。母が食事の準備をしているあいだ、父が一人でどこかに出かけて行ってしまったのだ。

母は結局暗くなるまで近所を探し回り、それでも見つからないので近くの交番で事情を話して一緒に探してもらったらしい。しばらくしてからお巡りさんが、近所の側溝にはまって動けなくなっていた父を見つけてくれたのだとか。

この後も慌てた母から何度も何度も僕に着信が入るようになり、そうなると僕も仕事どころではなくなってきた。介護休暇を申請してなるべく実家にいる時間を確保するようにした。

家にいても父は突然立ち上がり、慌てた様子で出て行こうとする。そのたびに母は「お茶入れたから」とかなんとか言ってなだめすかして父の「脱走」を止めていた。しかしお茶を飲んで一服すると、父はまた立ち上がる。

父はいったいどこへ行きたがっているのか。

出て行こうとする父を引きとめながら考えていたのだが、父はきっと「仕事」に出かけようとしているのではないか。父は何年も前に定年退職したことを忘れてしまっているのだ。それを何かの拍子に思い出して「あ!仕事いかな」となっているのではないか。一人で家を出るのは、父にとっては「出勤」なのだ。

仕事に対する責任感の強さは知っている。職場での父のかっこよさもわかった。でもそろそろ家での生活に慣れてくれてもいいのではないか。

その後も父は「出勤」を繰り返し、ある時は母の運転する車が信号待ちしている隙にドアを開けて歩いて行ってしまったこともあったらしい。認知症も受け入れ方次第で穏やかに同居できるのでは、などと軽々しく考えていた少し前の自分に教えてやりたい。それはまだ始まったばかりだからな、と。

***

これはレビー小体型認知症の特徴なのかもしれないが、この頃の父は、歩くときにも足が十分に上がらず、小さな歩幅ですり足のような歩き方になっていた。

わが家は築50年以上経つ昭和の家である。バリアフリーなんて概念はない。父はちょっとした段差や畳のへりなんかにもつまづくようになった。それどころか広げてあった新聞の上だって平気で歩くし、せっかく畳んであった洗濯物も蹴散らしていく。

父がゴジラみたいに歩き回ることで家の中がぐちゃぐちゃになるのも悲しいが、いつか転倒して頭でも打つんじゃないかと気が気ではなかった。

すり足の父が生活しやすいよう、父の行動範囲にはスロープや手すりが設置されていった。大き目の介護ベッドと車いすも家に届いた。どちらも行政から紹介されてレンタルしてきたものだ。

環境が整っていくにつれ、わが家はまるで病院のようになっていき、父は歩きやすくなった家の中を、そわそわと歩き回り続けた。

***

この頃の父はまだ自分の足で歩いてトイレまで行くことができた。それは大変助かるのだけれど、トイレの頻度がなにしろ多いのは困りものだった。

もしかしたら父は、仕事へ出かけようと立ち上がってみたはいいが、途中で退職していることを思い出して、照れくさくてとりあえずトイレに寄っていたのかもしれない。それとも清潔好きだった父のことだ、間に合わずに失敗することを恐れてあらかじめトイレに行こうとしていたのか。

「おとうさん、トイレはさっき行ったばかりじゃない」

ここだけ抜き出すとコントのようだが、自分の親がこうなると笑えはしない。困惑する僕たち家族をしりめに、父はゴジラのようなすり足で家の中をぐるぐると歩き回り、トイレに行きまくった。

家の中で立っているところを撮影した横顔の写真

終始こんな感じではあったが、それでもしばらくは母と姉夫婦と、週末に帰る僕とで父のことをなんとか自宅で介護していた。

行政には「要介護認定」という制度があって、介護が必要だと認定されると介護施設などに優先的にお世話になることができるのだが、自分の足でトイレまで行け、自分の手で食べることができる父は、現状介護が必要であるとは認められず、自宅療養するほかに選択肢はなかったのだ。

父は確かに自分でなんでもできたが、僕たちの話を理解しているようには見えなかった。それどころか、本人の意思すらどこまで行動に結びついていたのか怪しいくらいだった。

介護とは

介護という行為は人間特有のものなのだろうか。

自然の中で暮らしている生き物にとって、他者の手を借りないと生きていけない状態というのは致命的である。

周りの助けを借りてでも生きていてほしい。

こうした思いは、社会の中で生きる人と人との関係性、もっと言えば深い愛があってこそなせる技なのだろう。逆にいうと、そこに大きな愛がなければ献身的な介護というのは成り立たないと思う。

父の介護を通して、僕はあらためて父に対する母の愛を目の当たりにした。

状況としてはけっして良くないのだが、それでも母は、なぜかやる気に満ちていた。

おとうさんのためにも、まず私がしっかりしなきゃ。そんな思いがあったのかもしれない。職場では偉い人、家では絶対君主だった父だが、今は母の介護なしには生きていけない状態となっているのだ。この転換には、母としても思うところがあったのだろう。

この時期の父は、常に眉間に深いしわを寄せ、僕に小言を言うときのような顔をしていた。喉の筋肉が弱って声が出にくくなっているのか、ぼそぼそと囁くように常に独り言を言っている。

母はそんな父に対しても、根気強く、これまで通りの口調で接していた。

そんな母のがんばりは、父の目にはどう映っていたのだろう。

介護の現場に立ち会ってみるとはじめてわかるのだが、誰かに何かをしてあげた時、それが純粋な好意から出たことであったとしても、相手がまったく反応を示さないとこれはつらい。それでも献身的に介護を続ける母に、並々ならぬ父への愛を感じずにはいられなかった。

***

家族の制止をもろともせず好き勝手に歩き回っていた父だが、ある時ベッドから立ち上がろうとして手すりから手を滑らし、腰を打って骨折してしまう。

介護をしていた我々としては(勘弁してくれ)と(ほら言わんこっちゃない)が入り混じった気持ちだった。自分の意思をほとんど訴えなくなっていた父だが、この時ばかりは腰をさすりながら痛い痛いと繰り返していたので、可哀そうにそうとう痛かったのだろう。

腰を痛めたことで父はもう自由に歩き回ることができなくなってしまったのだが、それで介護する母の負担が減るかといえばそんなことはなかった。寝たきりの大人の男性の介護をするというのは、肉体的にも精神的にも、勝手に歩き回るのを止める以上に負担が大きいのだ。

なにしろ食事をとってもらうためにベッドから上半身を起こすだけでも一苦労なのである。動く気のない大人の体勢を変えるだけのことが、こんなに難しいとは。父が頻繁に訴えるトイレに対応するのはさらに大変なことだった。

この時期は週末には僕が手伝いに帰り、平日は週に数回、ヘルパーさんに来てもらって父の身の回りの世話をしてもらっていた。

家の中には消毒薬とトイレのにおいが充満していた。

***

父の状況が変化するたびに、僕たち家族はそれに合わせてシフトをチェンジして対応した。家の環境を整え、デイサービスの内容を変更し、僕は会社に休みを申請して仕事を調整した。

とくに母は細かい対応を求められた。父が少しでも好きなものが食べられるよう食事を用意し、その間に家事全般をこなしながらも、父がベッドから落ちてケガをしないよう、常に目を光らせていた(父はほとんど寝たきりの状態でも、まだ歩き回ろうとしていた)。

一度、父が短期で介護施設に宿泊することが決まった日の夜、僕と母とで近くの銭湯に出かけたことがある。いつもギリギリまで働いていた母に少しでも疲れを癒してもらおうと思ったのだ。

せっかくだからゆっくり入っておいでよ、と1時間後に休憩所で落ち合う約束をしてそれぞれ湯船に向かったのだが、僕はちょうどリモートワークを抱えていたので30分ほどであがって、休憩所で仕事をして母を待つつもりだった。

しかし僕が上がると母はすでに上がっていた。

もっとしっかり湯船につかってきたらよかったのに。そう声をかけると母はすまなさそうに

「でもお父さんはこんなことできないと思うと、なんだか悪くて」

と言っていた。

この後、母が気になっているという宅配ピザを注文し、二人で食べた。

宅配ピザを食べた時の写真

「美味しいもんだねえ。こんな美味しいものが電話すると届くなんて、便利になったねえ」

僕にとっても母にとっても、父には悪いが久しぶりに気を抜ける瞬間だったように思う。あの時食べたピザを、僕はなんだか今でもずっと覚えている。

***

そしてコロナ禍がやってくる

腰を痛めて歩けなくなったこともあり、介護認定で要介護状態と認定された父は、週の半分を介護施設で、残りの半分を自宅で過ごすようになった。自宅にいる日も朝はデイサービスに通い、ヘルパーさんが身の回りのことを手伝ってくれていた。

引き続き気は抜けないまでも、父を中心としたわが家の暮らしはなんとか落ち着いたように見えた。どれだけつらい状況にも人はいつか慣れるし、暮らしは安定するものなのだ。

そんな束の間の安定に、新型コロナウイルスの猛威が無慈悲に襲い掛かる。

家族の誰かが新型コロナに感染したわけではないのだが、医療のひっ迫は、他の病気を抱えた患者に対しても容赦なかった。

ちょっとした誤嚥から肺炎を引き起こした父は、大事を取ってしばらく入院することになった。これまでであればすぐに退院していたのかもしれないが、「肺炎」と聞くだけで犯罪者を見るような空気が世の中を覆っていた時期である。父は個室に隔離され、面会時間も制限され、僕たちはマスクと手袋という恰好で対面することになった。

新型コロナウイルスの猛威をふるっていたころの病院の注意書き

ベッドから落ちて腰を痛めた時もそうだったが、体のどこかを悪くすると、それを治している間、その隙を伺うようにして認知症というやつはすっと忍び寄ってくる。加えて人とコミュニケーションをとることができない隔離部屋である。コロナウイルスは避けられても、認知症はここぞとばかりに父に攻撃をしかけてきた。

肺炎から回復して一般病棟に移されたときには、父はもう自力で食事をすることができなくなっていた。

病院のベッドの様子

緩和ケアという選択

それから先の父は、一日一日、目に見えて弱って行った。

まるで生きる意思を失ってしまったかのようなのだ。自力で食事を取ることができないというのは、実際にそういうことなのかもしれない。

自分の力で食事ができなくなると、それを補うための選択肢は限られてくる。

一つは胃に直接流動食を流し込むためのバイパスを設ける手術をすること。もう一つは点滴のみで栄養を摂取すること。

「胃ろう」と呼ばれる前者については、母も僕もどうしても賛同できなかった。

食べる意思を失った人間の胃に、こちらの都合で流動食を流し込むのである。点滴も本質的には同じなのかもしれないが、父の胃に穴をあけてまで、という部分がどうにも許しがたかった。さらに体力が弱っていることで感染症のリスクも増すのだという。

そうなると後者の点滴に頼ることになるのだけれど、成人男性が生きていくためには、点滴のみで栄養を摂取するとなると、量的にも質的にも限界がある。これを選択するということは、つまり父の治療が緩和ケアに移ったということを意味する。なるべく苦しませないよう、父が命を全うするのを見守るということだ。

点滴器具の写真

母はあとになって、あの時の選択は正しかったのだろうかと僕に聞いてきたことがある。

父はすでに自分の意思を示さない。そんな父に対して僕たち家族が選んだ選択は、父を生かすことに結びつかない緩和ケアなのである。それは確かにきつい決断だった。

しかし僕たちにとって、先の見えない介護はもうこれ以上、肉体的にも精神的にも限界だった。母の言うように、あの時の僕たちの判断が正しかったかどうかはわからないが、結果的に、崩壊しそうだった僕たち家族を、少なからず救ったと言えるのではないか。

***

今でもたまに思い出す父の顔は、なぜかこの頃の顔である。感情が表情に映し出されていない、とても澄んだ目をした父の顔。

あの頃の父は、僕たち家族のことをどこまで認識していたのだろう。自分自身のことをどこまで理解していたのだろう。

人間の感情というのはCTスキャンや血液検査なんかではわからない。だからこそ、感情の発露を奪ってしまう認知症というのは、本人にとっても周りにとってもやっかいなのである。

この時期は僕と母とで交代しながら、できるだけどちらかが病室に残るようにしていた。何もできず、一日一日ただ弱っていくだけの父を見ているのは簡単なことではなかったが、今思うとこの時期僕は、それまでおろそかにしてきた父との時間を、まとめて取り戻そうとしていたようにも思う。

二人きりの病室で

静かさが鼓膜を圧迫するような寒い冬の夜だった。病室には僕と父と、二人きりである。

父と二人きりで長い時間を過ごすなんて、子どもの頃からほとんどなかった。家にいるときの僕は、できるだけ自分の部屋に閉じこもり、父とは食事のときですらほとんど会話らしい会話をしなかった。僕が父と直接交わした会話なんて、寄せ集めたら映画一本分くらいに収まってしまうのではないだろうか。

それでも僕の人生には、要所要所で父の影響を色濃く感じることがある。

教師という職に対するある種特別な気持ちもその一つだし、もっと根本的な、たとえば自分の中にある正義の基準みたいなものを考えたとき、そこには必ず父の存在が見え隠れするのだ。会話の数は少なかったものの、その言葉のひとつひとつには重みがあったのだろう。文字通り、血が通っていたんだと思う。

僕はもっと父と話をするべきだった。うまくいかないことなんかがあると、そんな風に思うことがある。

僕はもっと父と面と向かって話し合い、ぶつかり合うべきだったのだ。互いのことを知り、自分を知るべきだった。それを避けたのは僕自身であり、さらに認知症が僕と父からその機会を永遠に奪って行った。

病院で手をとる様子

いまこの病室で僕が感じているように、二人きりの気まずい空気を、父も少しでも感じてくれていたらと思う。

せめて少しくらい、息子と男同士の気づまりを感じ取ってくれていたらいい。こういう気づまりも親子でしか味わえないものではないか。

反応してくれなくてもいいから、なんなら不愉快に感じてくれていてもいいから、僕たちが親子であることを、もう少しだけ思い出してみてくれないだろうか。

そんな願いもむなしく、父はその日の夜中、静かに、何も言わずに旅立って行った。

認知症が僕たちに残してくれたこと

父は僕の人生に大きな影響を与えてくれた。

もう亡くなってしまったから過去形なのではなく、今でも進行形で、父は僕に大きな影響を与えてくれていると思う。

高校の頃からずっと父に歯向かってばかりいた僕は、父を失い、3年という月日を経て、この文章をまとめることでようやく父の死に向かい合うことができたように思う。

父を僕たち家族から奪って行った認知症という病気には心から腹が立つが、僕に限って言えば、あの病気のおかげで僕は父と子のつながりを改めて感じることができたというところもある。

もっと早く伝えておけばよかったことだが、僕の中にいる父に向けて告白したい。

ありがとう。お父さん、ありがとう。僕が今、こうして楽しく教師をさせてもらっているのは、あなたのおかげでもあるんです。

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