父を嫌いにならないために「仕事も遊びも諦めない介護」を選んだ - あまのさくやさん(ご家族)
もしあなたの身近な人が認知症になったら――。認知症にまつわる実体験をつづったコラム連載「私の家族は認知症」。今回の書き手は、実父の認知症介護と向き合う絵はんこ作家・エッセイストのあまのさくやさん。若くして父の介護のキーパーソンになった彼女が、仕事も遊びも諦めないために実践したこととは。
父の認知症の予兆と診断について
父がアルツハイマー型認知症と診断されたのは2016年。父は63歳で、私は30歳だった。64歳以下で発症したため、父は『若年性アルツハイマー型認知症』の分類になる。
父はもともとバリバリの外資系営業マンで、アメリカをはじめ海外を飛び回り、50代では働きながら大学院に通いMBAを取得するほどに意欲的だった。家では子煩悩で優しくて子供に甘い、そんな父親だ。一方、母は専業主婦で、いつも子供たちのそばにいて家庭を支えていた。私は兄と年の離れた弟に挟まれた長女として、仲良い家族の中、甘やかされながら平和に育ってきた。
若き父と、幼少時代の兄と私
そんな父が転職を繰り返したり怒りっぽくなったりして母との喧嘩が増えていったのは、50代後半に差し掛かった頃だ。それまでの父と様子が違う……と感じ始めた違和感は、日に日に確かなものになっていった。
物忘れが多くなり人と待ち合わせができない、昼夜の区別がつかない、服装に無頓着になる……。疑わしい兆候が出現しても、認知症の診断はなかなか下されず、家族はもどかしい数年間を過ごした。いよいよ診断が下された時は少しホッとしたくらいだったが、その頃私は両親と同居しておらず、父の介護者は「母」だった。
父は頑なに自分が認知症であると認めようとしなかった。それでも雑記帳には、自分を見失いはじめている不安などを吐露していた。
母の病気が発覚して、娘の私が介護の最前線に立たされた
その後個人的な事情により私は実家に戻り、両親との同居がはじまった。引越しを終えて間もなくして、なんと母に「ステージIV」のがんが発覚した。診断が下りることを待ちわびてさえいた父の認知症とは裏腹に、これは青天の霹靂だった。このとき私は33歳。目の前が真っ暗になった。
やがて私は、母の負担を減らすため、そして未来の自分への負担を考えて、介護保険サービスを積極的に利用しながら父を介護することに決めた。ケアマネージャーさんへ相談をし始め、私は父の介護のキーパーソンになり、要介護認定を申請した。それまで家族以外の第三者による介護サービスを受けたことがなかった私たちは、まず父が慣れるペースに合わせて週1回のデイサービス利用からはじめ、時間をかけて徐々に生活の中に介護サービスを入れて行くことにした。
父の状況を細かに伝えるメモ。これは認知症の診断が下りる前にも、要介護認定調査の際にも役立った。
30代で介護。仕事も遊びも諦めたくなかった
母のがんが発覚し、いよいよ父の介護に向き合い始めた頃、兄も私も30代、弟は20代。子が親の介護と向き合う年齢にしては、かなり早い方だ。だからこそ私たちには、「親の介護のために、自分の現在の仕事や将来を手放す」という選択肢は最初から頭になかった。
促しても父が入浴しないときや、何度も何度も同じ質問をしてくるとき、真夜中に目覚めてなかなか寝ようとしないとき。自宅介護でそんな瞬間に出会う度、頭の中では、「なんで私が」という思いがかすめる。病気のせいだとわかっていても、徐々に父と顔を合わせるのも億劫になってしまう。この日々がずっと続いたら、私はどんどん父を嫌いになってしまうのではないか? 家族仲良く暮らした過去を、後悔や嫌悪感で上塗りしてしまうのが、たまらなく怖い。
私はフリーランスで仕事をしている。在宅仕事も多い分、もしも生活が介護に占められて、自分の仕事やプライベートがなくなってしまったら……? そう思うとゾッとした。母がいなくなっても、仕事も遊びも旅行も、自分のやりたいことは一つも諦めたくない。「父のせいでできなかった」と、責めないようにする方法を選ばなければいけない。そう強く思っていた。
仕事と介護を両立させる方法
がんの発覚から約1年半後、2018年の終わりに母が他界した。母を失った悲しみに暮れつつも、私と兄と弟による父の自宅介護は容赦なく始まった。常に父を見守ってくれていた母がもういない。
それまでも兄弟で介護の分担をしてきてはいたが、今後も自分たちのそれぞれの生活は維持したいという希望を叶えるべく、ケアマネージャーと相談。以下のサービスを利用し、兄弟でシフトを組んで連携することに務めた。
・週4回のデイサービス(入浴あり)
・1回30分週3回のヘルパー
・月に3〜4泊のショートステイ
・宅配弁当の利用(自費)
あわせて、細かい注意点をまとめた簡易マニュアルとシフト表も作り兄弟と共有した。体験したことはないけれど、バイトリーダーの役割ってこんな感じだろうか?
同居している私は朝昼を中心に、夜は兄弟やヘルパーさんに担ってもらい、それぞれが可能な時間割を設定した
デイサービスを利用すれば、父の昼食や日中の安否を心配する必要はない。自主的には行わない入浴も、サービスの一つとして定期的かつ安全に行ってもらえることは、我が家の命綱となっていた。
父の夕食は宅配弁当を頼み、それを温めて目の前で食べるのを見守り、食後は薬を服用させるまでをヘルパーさんにお願いした。そうすることで夜も、父の夕食や安否確認のために早く帰宅しなくても済む。家に身を置かなくても日々が回る仕組みを作り、穴が開く部分を交代制で補う。忙しい時期はショートステイを利用し、父に外泊してもらうことにする。
さすがにこれだけ利用すると介護保険料で賄われるサービスの上限を超えていたが、その際はケアマネージャーさんが都度教えてくれるので、超えてでも利用したいかどうかはこちらで判断できた。
父の不穏な態度でことがうまく進まなかったり、シフトが機能しない日に兄弟でぶつかったりすることもあったが、父が徘徊や危険行動をしないでいてくれたのは救いだった。しかし、これだけ外部の力を借りても、協力的な兄弟に救われていても、毎日顔を合わせて介護するのは疲れる。私は父の最低限の生命線を保つことに必死で、お互いが健やかで、友好的でいるための配慮をする余裕はなかった。
このような状況ではあったが、私は大いに周囲の力を借りながら、自宅介護をしていた期間も仕事は断らず引き受け、絵はんこ作家として個展を開催し、さらには旅行や地方出張にも行くことができた。
自宅介護期間中に行なっていた個展の様子
この頃、父はまだトイレは自分で行けていたが、そうできなくなる前に、そして脱水症状や熱中症の恐れがある夏が来るよりも早く施設に入所させたかった。当時の父の介護度は「要介護2」。ネットで有料老人ホームを検索し、今の経済状況で入れる施設を探しては見学して回った。
現在の父と私
現在父は、家にほど近い有料老人ホームに入所している。もう夏が来たということは、父が施設に入所してから1年が経ったということだ。
施設での一日は朝が早く、バランスの良い食事をとって、夜は早く寝る。そんなサイクルができている。入所前は施設に入ったら、私のことをあっという間に忘れてしまうんじゃないかと心配していた。進行は見られるものの、想像以上に父は健やかに暮らしている。
あのまま自宅介護を続けていたら、関係性も父の病状もどんどん悪化していたように思う。かつて私は、父と会話をするのも億劫になっていたが、離れて暮らすと寂しくなるもので、ふと父に会いたくなる。
緊急事態宣言前後は3カ月ほど面会ができなかったが、現在は制限付きで会うことができるようになった。フェイスシールドとマスクという仰々しい装備で面会にきた私の姿を見て父は、「なにそれ、なんか変なの着けてる」と笑った。私は「SFみたいでしょ」と返す。
面会を終えた私が帰ろうとすると、父は「もう帰るの?」と寂しそうな顔で、「俺も帰ろうかな」と呟く。私はその度にちくりと心を痛めながら「また来るね」と言って、家に帰る。
父は自分の家に、家族といつまでも暮らしたかっただろう。そして父の介護をするつもりでいた母は予想外に早く、子どもたちに介護を託すことを最期まで心配しながら逝った。だからこそ私は、母を心配させないためにも、自分を守らなければいけないと思った。私たちは兄弟で決断し、父を有料老人ホームに入所させることを選んだ。父の意に沿わなかったかもしれないその選択は今、家族に平穏をもたらし、父の体を健やかに、安全に保ってくれている。
緊急事態宣言明けに3カ月ぶりの再会。父はあっけらかんとしていた
もしも母が生きていたら? 私が40代、50代だったら? 一人っ子だったら? たらればを考えてもどうしようもないし、これから先だって何が起こるかはわからない。結局誰しもが、現在の自分や家族にとっての最善を考えて、然るべき人に相談して助けてもらいながら動くしかない。そうすれば少なくとも、自分たちの最適解が出せるから。私たち家族は今までもそうしてきたし、これからもやっていけるのではないだろうかと思っている。
今、少し肩の力を抜いて構えていられるのは、ケアサービスの存在や兄弟の協力と、本当は自宅にいたかったはずなのに、介護施設にいてくれる父のおかげだ。そして生活が介護に占められることを一番心配しながら逝った母の思いが背中を押してくれたからこそ、私は自分の道を諦めずにいられた。
お父さん、嫌いにさせないでくれてありがとう。どうか一日でも長く、私のことを覚えていてください。
文:あまのさくや
絵はんこ作家・エッセイスト。1985年生まれ。介護歴3年、介護をしながら個展を開催したことも。父の介護と向き合う日々と、母を亡くした想いをイラストと共につづったエッセイが書籍化。『32歳。いきなり介護がやってきた。ー時をかける認知症の父と、がんの母と』を佼成出版社より刊行。現在は長年暮らしていた東京を離れ岩手県紫波町へ移住し、遠距離介護を試みている。
編集:ノオト(2020年7月執筆)