「父の誕生日」認知症介護体験談
父は2012年11月8日で81歳
佐賀県の特養で生活している父が昨年11月8日に81歳の誕生日を迎えました。2004年3月にアルツハイマー病と診断されてから9回目の誕生日でした。
誕生のお祝いは生きていないとできません。また祝ってくれる人が、いてくれることがうれしいのです。生きていることを喜んでくれる人たちがいるのです。「生きていてくれて、ありがとう」と思うから、私たちは父の誕生日を祝います。
病状の進行
一昨年の春に心筋梗塞で生死の境をさまよい、認知症は一気に進行しました。お正月は迎えられないかもしれないと覚悟もしていました。だから、私は家族に無理を言い、子どもたちには勤務調整してもらい、全員で帰省しました。
診断を受けた当時は、田植え機やコンバインを使って苗を植え、米を収穫することができていました。それができなくなり、話せなくなり、自分への怒りか、母に暴力をふるうようになりました。小規模多機能居宅介護を利用し、週末は家で過ごし平日は施設で…の生活がずっと続くと思っていました。
しかし、病気は進行し、徘徊や足腰の弱りで転倒するようになり、在宅生活を断念しました。両親は相次いで特養とグループホームに入りました。
生きていてほしい
高見国生代表理事が書かれた認知症サポーター養成講座のテキストに、こんな一文がありました。「親が亡くなってみると『次に死ぬのは自分の番だ』と気づきました。親は生きていて子どもを死から遠ざけてくれているのだと思いました」。考えたこともなかったことに驚いていましたら、井上靖さんの『わが母の記』にも「生きていた父が死から私をかばう一つの役割をしてくれていたことに、父の死後に気付いた」とありました。父や母がいるので、私は死から遠ざけられています。
まだまだ、生きていてほしいと思います。嚥下障害があるので、「胃ろうはどうだろうか、呼吸停止した場合の挿管はどうだろうか」と悩んでいました。生きていてくれたら、会いにいけます。私はしんどくなっても、両親の顔を見ることで元気が出ることがこれまでにも多くありました。両親は病気でできないことが多くなっても、私に泣きごとを言ったり、周囲に迷惑をかけたりはなく、粛々と病気を受け止めているようでした。
でも寿命はいつか尽きます。その寿命の終わりは樹木が根っこから栄養がとれず、樹が倒れて土に還るような、自然界と同じような形がいいだろうと思い、胃ろうや挿管はしないことで主治医には伝えています。誕生日が迎えられたことを喜び、生きていることに感謝します。しかし、いつかは終わる寿命だから、私を死から遠ざけていた両親がいなくても、しっかりと生きれるように、その準備の誕生日だったのかもしれないと思えます。
父は人に迷惑をかけることが大嫌いで、幼い頃にはよく叱られていた私。「しっかり生きろ」と父は生老病死を、誕生日に私に教えてくれているようです。
「ぽ~れぽ~れ」通巻393号(2013年4月25日発行)