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認知症介護体験談まとめ|認知症の人と家族の会の会報「ぽ~れぽ~れ」より

認知症介護体験談まとめ|認知症の人と家族の会の会報「ぽ~れぽ~れ」より

認知症介護体験談1「ある日突然主人が脳梗塞 そして認知症に」

脳梗塞の発症

「ちょっと体がおかしい…」呂律の回らない口調で携帯電話からの主人の声。2005年8月12日、午後の出来事です。私はびっくりして仕事先から家に戻りました。居間のテレビの前で尿を漏らして倒れていました。救急車で運ばれて、検査の結果は脳梗塞。

右半身麻痺で40日間の病院生活は主人の生活を180度変えました。言葉を失い、立つこともできなくなって主人も戸惑いましたが、それ以上に看病経験ゼロの私にとっても青天の霹靂でした。主人は59歳の誕生日を迎えて4ヵ月目の出来事でした。私は54歳、まだまだ介護は他人事のつもりでした。

断られ続けた介護サービス

介護サービスは退院後すぐに受けられるようになっていました。ところが、元気だった人がある日突然病人ですから、病気慣れもしていません。デイサービスに行っても帰宅願望が強く、また、力は十分にあり車椅子で暴走しては、周りの人に迷惑をかけていました。お願いしたデイサービスの方から断りの連絡が何度かありました。その都度、私のピンと張った心の痛みが限界にきていました。

そして、3ヵ月程お願いをしていた所からも、とうとう断られたのです。帰り際に「もし、あなたのお父さんが今の主人のような状況だったらどうしますか?」と尋ねますと、「僕だったらドクターを探します」と言ってくださいました。実はその頃、主人は脳梗塞から認知症になっていました。ところが私は、脳梗塞は受け入れたのですが、認知症は認めたくなかったのです。ですから、人にも主人が認知症であることを言ってなかったのです。

転機

崖っぷちに立った私は、ようやく知人に認知症のことを言えたのです。びっくりした知人は、それだったらと病院を紹介してくれました。さっそく、主人とその病院を訪れました。私に何枚かの書類をくださり、細かく記入して帰りました。そして、何日かして私だけが病院に呼び出されました。私のカウンセリングでした。

ソーシャルワーカーの人と看護師さんが、二人でじっくりと3年間の私の想いをすべて聞いてくださいました。娘たちにも、親にも、友人にも、誰にも言えず、ただこれは私のことだから…と自分に言い聞かせては我慢していたすべてのしこりを、涙とともに何の気遣いもなく出すことができました。そして、私の気持ちをわかってくださる人がここにいる、という安心感で心が温かくなったのを感じました。3年間のモヤモヤが、とてもスッキリとして長いトンネルから抜け出せた気がしました。(余談になりますが、先日、福井で介護されていた奥様がご主人を殺めた事件がありましたが、私のようにカウンセリングの機会があったならば、こんな不幸な結果にはならなかったかもしれないと、残念でなりません。)

それから、やはりショートステイやデイサービスをお願いして、1週間に4日はデイサービス利用で、私は仕事に全力投球することにしています。その代わり、週3日は主人に100%の日にする、このようにして気分転換しながら心豊かに生活しています。

認知症介護体験談2「片時も目を離さない、手をつなぐこと」

初めての行方不明

79 歳の妻、要介護2を看ています。ひとり歩きについてはいろいろ経験があります。

一昨年、二人で城崎温泉へ行った帰り、城崎駅で京都行きの特急列車を待っていた時、妻がトイレに行くというので連れて行って待っていましたが、いつまで経っても出てこない、慌てて探し始め、警察にも連絡して、大雨の中を探し回ったのですが、なかなか見つかりませんでした。

2時間余り後に見つかったのは、大阪行きの特急列車の中でした。途中駅で降ろしてもらい、私はそこまで迎えに行って無事に帰ることができました。初めての行方不明経験で、見つかるまでは生きた心地がしないほど心配しました。トイレの反対側の出口から出たと思うのですが、どうやって無賃乗車できたのかはわかりません。

これ以降は絶対に妻の手を離さないことにして、いつも手をつないで歩いています。近所の人たちは「なんと仲の良い夫婦!」と言ってくれますが…。

続く行方不明

もう一度は昨年、真冬の寒い深夜のこと。隣に寝ているはずの妻がいないことに気づきました。いつからいなくなっていたのかわかりません。パジャマ姿ですが、幸いいつも持って出る手提げ袋を持って出ていました。その中には携帯電話が入れてあります。携帯は使える時も使えない時もありますが、万一の時を考えて持たせていました。

その携帯に「どうか出てくれ!」と、何度もかけ続けましたが、なかなか出ません。あきらめかけていた何十回目かについにつながりました。寒さと不安に震えて泣きそうな声でした。「そこはどこ?近くに何が見える?」と聞くうちに、ある病院の近くにいることがわかり「そこを動くな」と言ってタクシーで駆けつけました。場所は動いていましたが、見つけることができ、親切な運転手が車内を最高の温度にして冷えきった体を温めてくれました。トイレがわからず、仕方がなかったのでしょう、下半身は濡れてしまっていました。何時間歩いていたのかわかりません。

その後も、デイサービスに行っている日の午後、警察から「奥さんを保護している」と電話があり、何のことか一瞬わかりませんでしたが、迎えに行ってみると、デイから勝手に出てタクシーに乗り、行き先がわからないので交番に保護されたのです。

まだまだしっかりしているようでも何が起こるかわかりません。とにかく私はいつもべったり一緒。手をつなぎ、見失うことのないよう心がけています。お蔭でその後行方不明にはなっていません。

墓参り

昨年の今頃はちょうど熊本に二人で行っていました。これは「家に帰る」「母親に会いに行く」という訴えに毎日悩まされ、納得させるため妻の親の墓参りに連れて行ったのです。城崎のことがあったので緊張続きの4日間でしたが、無事に行くことができました。その時の墓前の写真を見せることで、何とか「母が生きている」という症状を治めることができています。

認知症介護体験談3「何を考えているの!??」

嫌がる受診

母親は80代、現在要介護3です。アルツハイマー型認知症と診断されています。7年前に夫を亡くした頃が、発病初期だったでしょうか、もの忘れが確認できるようになっていました。

世間からは、しっかりした女性とみられていて、近所の人への受け答えからは、とても認知症とはわからなかったと思います。しかし、一緒に暮らす家族は、日頃の動向から、「もしかして」という気持ちがあり、専門医の受診を考えましたが、本人は当然、病院受診など聞くはずもありません。

傷つけられたプライド

嫌がっていたのを、何とか説得というか、無理やり連れていったのかもしれません。総合病院の専門外来で受診したのですが、担当医師が、いきなり長谷川式簡易スケールをやり始めました。まだ、軽度の時期でしたから、本人は自分が何をされているのかを感じ取り、本人のプライドが傷つけられ、そこで一旦医療と切れそうになりました。

受診後、母が部屋で一人で泣いていたのを覚えています。

医療との繋がり

それでも、受診は必要と考えたので、通院しやすい、気軽に門をくぐれるクリニックに繋げることができ、通院することができました。それ以来、本人も嫌がることなく、定期受診をするようになり、服薬も家族管理ですが、できています。

早期の受診と服薬は大事だと思います。その際、医師との相性も医療との繋がりを保つ、重要な要因となります。医療が傍らにあれば、医療の管理のもと、先生からの生活面でのアドバイスも期待でき、一方で、安心して福祉サービスの利用を進めていくことができます。医療と福祉サービスの両輪が揃うと、家族の安心感も高まります。

現在も同じクリニックを受診しています。先生から母に、「何か困ったことはありませんか?」と聞かれますが、受け答えは決まっています。「何も苦労はありません」先生の前では、今も昔もしっかりしていて、頑張っている自分がいるのでしょう。

認知症介護体験談4「『介護日誌』~2014年暮れから正月へ~」

2014.12.3 老健入所している妻と私

持病のある私は、朝から倦怠感、足のむくみで体力・歩行力共に欠如し、週2回程の妻の施設通いも辛くなりました。時に電話で状況を尋ね、18日振りに行き、会う前にフロア責任者に様子を聞いた所、3日前突然奇声を上げて落ち着かない状態となり、今朝も頓服的に安定剤を投与したとの事。案じていた事が本物と知り、「なんの連絡もなかった!」と苦情を言いつつも、早速妻の元へ行きました。先に私の訪問を知った妻が満面の笑みを浮かべ、身を震わせるような姿でおり、「申し訳ない事をした」と滲む涙を抑えつつ、恥じらいもなく抱きしめてしまい、妻の激しい感情に手を添えて個室に連れて行った程でした。

介護する私の健康の影響

大声で訳も分からぬ事を懸命に話す態度に、否定も出来ずにしばらくうなずきながら対応を考慮。タイミングを見て『浜辺のうた』を歌うと驚き!目を見開き・首でリズムを取り・手をたたき出して一緒に歌いひと安心。童謡、唱歌等2~3曲歌い、おやつの時間のよしで終了。別人のように明るい表情に戻ってくれ安心。帰宅後電話で様子を聞くと、笑顔を浮かべテレビを見ているとの事。介護する立場の自分が健康でないと大変な迷惑をかけてしまうと改めて認識しました。

2014.12.26 思いも付かぬ事態

クリスマスも終わり今年もあとわずか、なんとなく気忙しく感じますが、何も出来ない自分に苛立ちを覚えます。

最近妻が男を見れば、“お父さん”と呼び、夜は就寝時間になると落ち着かずに廊下をうろつき、係員を悩ませる。私が行くと半分は訳の分からぬ言葉で大きな声で話す…等、変化が生じています。

昨日病院での診断、医師が言うには

  • 環境の変化が大きな要因と考えられるので、当面外泊は控える
  • 頓服用として安定剤を、また寝る前に睡眠剤を付与

したがって、今年は妻不在の正月となる、思いも付かぬ事態です。

2015.1.2 二人の正月

年末年始の外泊を断念しての寂しい新年でしたが、少量ずつおせちを詰め合わせ、施設に出掛けました。元気そうで何よりでしたが、寝る時間になってもなかなか寝付けないということです。部屋で早速おせちを振る舞った。一つ一つこれは何の料理だと聞いてみたが、首をひねり、“美味しい”の連発、その身振りが愛おしい。最後に…、これは?首をかしげるばかり、「お母さんの名前は?」、“カズコさぁ…あぁ、カズノコ!”、自分の名前は記憶にあるようだ。どうして色々な料理を食べてもらったか分かる? 今日は何日? と言い唄ってみた。「もういくつ寝ると…お正月」。「…あ、お正月だ」と、やっと分かってくれた。

○妻とのお付き合い

  • 微笑みながら目をみつめつつ話しかけ
  • 腹を立てずに根気よく叱らず怒らず
  • 常に穏やかな態度で接する

こんな事に気をつけ、悪化する自分の持病との闘いは気を使う。今年もこんな事の繰り返しだろうが、決して負けはしない、と改めて心に誓った。

認知症介護体験談5「親子の介護は難しい!?」

母親は80歳で要介護3。54歳で早期退職をして通い介護を続けている、59歳の娘の体験記です。母親と同居している弟夫婦は共に51歳。

母の「わかった!」は半分だけ…

「わかった! 気をつけて帰れよ。ありがとな」

夜、実家から帰る時、ふすまを開けて寝ている母に声をかけるとこの言葉が返ってきます。翌日がデイサービスの時は「枕元の服を着て私が来るまで待っててね」と言い、休みの時は「朝ゆっくりでいいんだから、私が来るまで寝ててね」と言って帰ります。母の「わかった!」という言葉を半分だけ信じて、翌朝8時に実家に行きます。

が、母は部屋に居ません!台所でご飯をよそっています(食べ終えている事もあります)。畑に立っていた事もありました。弟夫婦が仕事に出かけたばかりのはずなのに、なんと素早いのでしょうか!

糖尿病からの認知症、ちゃんと家族でサポートしなさい!と医師の叱責

もの忘れ外来で母が糖尿病からの認知症と診断を受けたのは震災の前年です。同時期、内科医からは「糖尿の数字が悪すぎる!家族が見てあげないとダメですよ!」と叱られました。血糖値を改善する事が認知症の進行を遅らせる事になるので、土・日は弟嫁が、月~金は私が注射、薬、食事の管理をする事にしました。

母は、既に医師からの注意事項も栄養士の栄養指導も覚えられず、血糖値測定もできない状況でしたので、測定で単位を決め注射、食前薬を飲んで、野菜、おかずを先に食べて...という事全てに声かけが必要でした。母に「いちいちうるさい!」と言われましたが仕方がありません。

会員の方からおやつの出し方等を教わりとても助かりました。工夫してきれいに盛りつけたサラダやおかずを出しているのに、ご飯だけを先に食べて、サラダをゴミ箱に捨てられた事がありました。さすがにこの時は「死んでしまえ!」と思いました。悪い娘です!!

サービスを利用するようになっても、家族に疲れが…

1年後、医師から「血糖値がずいぶん良くなってきたよ。この調子で頑張ってね」と言われ、ふと我に返ると私も弟嫁も体調不良になっていました。この先この生活をずっと続けるのはとても苦痛で、母には申し訳ないけどデイサービスに通ってもらいました。

現在は小規模多機能で泊まりも利用しています。ずいぶんと自分の時間が持てるようになり、気持ちにも余裕が出てきましたが送り出す時は地獄です。泊まりの話をすると、いつも「ひとりで居られんのに、じゃまにすんのか? 首つって死んでやっから!」と言われます。先日は更に「苦労して育ててやったのに!」と言われ、私も言い返し大げんかになり、その後自責の念に駆られ、辛かったです。

続けられるまで続けるしかない!

母の「ありがとな」の言葉には救われますが、正直、疲れてきました。いつまで続けられるかわかりませんが、今は続けられるまで続けるしかありません。

認知症介護体験談6「認知症の父と共に」

病気の始まり、受診のきっかけ

父の認知症は、今思い返すと、様々な物に名前を書いていたのが始まりのように思います。元々凡帳面な性格なので、はじめは違和感はありませんでしたが、一輪車のタイヤにまで記名してあるのを見て、おかしい! と思いました。その一年後くらいには、時間の経過がわからなくなって、春先に外した雪囲いを4、5月には再び施すようになりました。

受診したのは、私が退職後に1ヵ月のアルバイトを依頼された時、一人で家に置いて出かけることが不安になったためでした。

地域とのかかわりの中での工夫

日常生活の大部分は、補助は必要ながらも自立しています。しかし、35年前に退職した事実は理解できず、毎日仕事に行こうとします。そして、時々近くの小学校に入ってしまいます。学校には、家への連絡と校外への誘導をお願いしてあります。また、家から離れた所にいると、地域の方が知らせてくれ、近所の方々は世間話の相手をしてくれます。

毎日の生活で大切なこと

今は薬が合っているからか落ち着いていますが、以前は夜中に動き回るので、家人が眠れず困りました。このことがショートステイを利用するきっかけになりました。今大変なのは、一日に何回も「明日は仕事に行く。スリッパはあるか。弁当を作れ。着ていく服はどこにある…」と訴えることです。適当に相槌を打っていると不安が募るようだし、説明しても理解できず、説明の仕方が悪いからだと怒るのです。自分が「不安」で何度も聞くのだとわかりますが、家族にもストレスが溜まってきます。

介護を通して思うこと

認知症という「病気」にかかっているのだから、外科的・内科的な病気と同じように充分に看てあげなくてはと常に思いますが、ついついきつい口調になったり、イライラッとしてしまったりする自分に対してストレスが溜まります。この生活が何年続くのだろうと思うと不安になってしまいます。また、私自身がこのような状態になるのではないかと将来が暗く思える時もあります。

高齢の父をデイサービスやショートステイに出すことに、周りの人たちはどう思っているのだろうと気に掛かることもあります。でも、家に居ると確実に寝ている時聞が長くなり、ボケが進みます。施設に出向くことで、生活が規則正しくなり、人との関わりが増え、刺激を受けることができます。そしてなにより、介護のプロの目が、適切な対応を見つけてくださる! 父のために良いことなのだと思うようにしています。預けていても、いつも頭の片隅にあって繋がっているのですから、父もきっと理解してくれていると思っています。父は96歳ですがまだまだ元気です。この後もお互いに気持ちよく生活していくために、このサービスは欠かせません。有り難く思っています。

認知症介護体験談7「私の介護体験記」

父との同居

私の父は長年一人で生活をしていたのですが、私の夫が退職を機に、父の跡を継いで農業をしたいと同居することになりました。当時父は88歳。後継者ができ安堵した様子で、親孝行ができたと私は喜んでおりました。

夫は、新規就農者との交流や、会社勤めで得たノウハウを駆使し、自分流のやり方を模索しながら、いきいきと農業に取り組み、私は同居した後も仕事を続けておりました。

混乱の始まり

同居して2、3年が過ぎた頃から、父親のもの盗られ妄想、被害妄想が始まり、車の鍵がない、補聴器がない、薬に毒を混ぜていると、声を荒げ、顔の表情も引きつり、通帳がないと警察に電話をしたりで、私たちも対応にとても困る日々が続きました。

父が信頼している主治医に相談し、認知症薬が処方されたのですが、自分で薬の内容を調べたのか「俺を認知症にするのか」と怒り、不信感をもたれる始末。結局、薬は拒否し内服しませんでした。

父との別居

仕事先の先輩に『家族会』の存在を聞き、そこで認知症について学び、介護の悩みを共有し相談する機会を得ました。聞き流す、うまく交わす、怒らない等の対応を頭では理解し努力したつもりでした。

しかし、父が93 歳の時、保険証を返せと言われ、私もつらくて泣いて抗議し、夫もついに堪忍袋の緒が切れ、怒鳴ってしまい、これが決定的となり、父から「出て行ってくれ」と宣告されました。高齢の父をおいて出ることに迷い、「つどいの会」で相談したところ、「お父さんの言うようにして様子を見たら」との助言に力を得て、別居に踏み切りました。

その後、適度な距離が私の気持ちに少し余裕をもたせたので、父の気持ちを考えてみました。「夫に農業を取られてしまった寂しさからのもの盗られ妄想か」との思いに至り、「土地を守り続けてきてくれたお陰で、夫は、農業に誇りをもって頑張っているよ。ありがとう」と感謝の言葉と共に、できた作物を届け続けました。父は「見事な出来栄えだ」と夫の努力を認め、再度の同居を希望しましたが、家中に鍵をかけて、用心している父の行動から決心できませんでした。

入院、そして看取り

父が96歳で免許証を返納してから、毎日実家に通い、必ず翌日の予定を伝えました。携帯電話を持たせたので、困る事があると電話がかかってきました。内容は、本人のもの忘れ(盗まれたと言う)が多く「夕方行くから、一緒に探そう」と言うと納得してくれました。

しかし、父が93 昨年10月末、体調を崩し入院しましたが、「家に帰る」と言い続けるため、帰るなら今しかないと思い、デイサービスを利用しながら夫婦で協力し在宅で介護しました。

2週間後、体調が悪化し、10日ほどの入院で12月、眠るように亡くなりました。98歳でした。

一緒に住む難しさと、適度な距離が、娘として父を思いやることができたのではないかと、今、振り返っています。

認知症介護体験談8「父の誕生日」

父は2012年11月8日で81歳

佐賀県の特養で生活している父が昨年11月8日に81歳の誕生日を迎えました。2004年3月にアルツハイマー病と診断されてから9回目の誕生日でした。

誕生のお祝いは生きていないとできません。また祝ってくれる人が、いてくれることがうれしいのです。生きていることを喜んでくれる人たちがいるのです。「生きていてくれて、ありがとう」と思うから、私たちは父の誕生日を祝います。

病状の進行

一昨年の春に心筋梗塞で生死の境をさまよい、認知症は一気に進行しました。お正月は迎えられないかもしれないと覚悟もしていました。だから、私は家族に無理を言い、子どもたちには勤務調整してもらい、全員で帰省しました。

診断を受けた当時は、田植え機やコンバインを使って苗を植え、米を収穫することができていました。それができなくなり、話せなくなり、自分への怒りか、母に暴力をふるうようになりました。小規模多機能居宅介護を利用し、週末は家で過ごし平日は施設で…の生活がずっと続くと思っていました。
しかし、病気は進行し、ひとり歩きや足腰の弱りで転倒するようになり、在宅生活を断念しました。両親は相次いで特養とグループホームに入りました。

生きていてほしい

高見国生代表理事が書かれた認知症サポーター養成講座のテキストに、こんな一文がありました。「親が亡くなってみると『次に死ぬのは自分の番だ』と気づきました。親は生きていて子どもを死から遠ざけてくれているのだと思いました」。考えたこともなかったことに驚いていましたら、井上靖さんの『わが母の記』にも「生きていた父が死から私をかばう一つの役割をしてくれていたことに、父の死後に気付いた」とありました。父や母がいるので、私は死から遠ざけられています。

まだまだ、生きていてほしいと思います。嚥下障害があるので、「胃ろうはどうだろうか、呼吸停止した場合の挿管はどうだろうか」と悩んでいました。生きていてくれたら、会いにいけます。私はしんどくなっても、両親の顔を見ることで元気が出ることがこれまでにも多くありました。両親は病気でできないことが多くなっても、私に泣きごとを言ったり、周囲に迷惑をかけたりはなく、粛々と病気を受け止めているようでした。

でも寿命はいつか尽きます。その寿命の終わりは樹木が根っこから栄養がとれず、樹が倒れて土に還るような、自然界と同じような形がいいだろうと思い、胃ろうや挿管はしないことで主治医には伝えています。誕生日が迎えられたことを喜び、生きていることに感謝します。しかし、いつかは終わる寿命だから、私を死から遠ざけていた両親がいなくても、しっかりと生きれるように、その準備の誕生日だったのかもしれないと思えます。
父は人に迷惑をかけることが大嫌いで、幼い頃にはよく叱られていた私。「しっかり生きろ」と父は生老病死を、誕生日に私に教えてくれているようです。

認知症介護体験談9「父と母の介護から学ぶ」

レビー小体型認知症なのか…

しっかりしていた父が、2010 年に胃潰瘍で2週間の入院。退院後、どんどん体が動かなくなりました。パーキンソン病の服薬がきちんとできていなかったことがわかり、私が薬を飲ませると3日で以前のように体が動くようになりました。ですが、数週間すると、人がいるとか、子犬がいるとか言うようになりました。

日に日にその訴えが酷くなり、外に戦車があってバズーカ砲を撃ってくるなどと言うようになりました。主治医に相談すると、薬の副作用とのことで一部変更しましたが、数日すると幻覚が現れ、その度に相談して処方を変えてもらいました。しかし、幻覚は治まりませんでした。ゲートボールのクラブを振り回し、大声を張り上げ、私はその度に起こされ眠れない日々が続きました。この頃から本やインターネットで勉強し、父はレビー小体型認知症と確信しました。主治医に何度説明しても「副作用です」とか「脳を開けてみないとレビーかどうかはわからない」など、納得のいく説明はありませんでした。

母について

7人兄弟の末っ子の母は天真爛漫で、明子という名前の通り明るい性格でした。70歳で保育園の仕事を辞めた頃から、うつ症状のように寝込んでしまうことが多くなりました。回覧板すら回しに行けなくなった頃、やっと病院に行き、多発性脳梗塞による認知症と診断されました。79歳でした。

父の症状が悪くなると介護に手がかかり、私は仕事を休むようになりました。これ以上職場に迷惑をかけられないと自分から仕事を辞めました。本当に悔しくて辛かったです。なぜ親のために自分の人生を投げ打って辞めなければならないのかと、テレビを見ていてもご飯を食べていても涙が止まりませんでした。

たどり着いた4人目の医者

どうしたらよいか悩んでいた頃、A先生に診ていただくことができました。やっと認知症を熟知した専門家に診てもらい症状も安定しました。もの忘れ外来を掲げていても、認知症にはいくつも種類があり、その認知症に熟知した医師に診てもらうことが難しく、特にレビー小体型認知症を診断できる医師は少ないと感じています。

「家族の会」の存在

仕事を辞め介護に行き詰まっていた頃、市報で「家族の会」のことを知り、藁をも掴む気持ちで参加しました。「家族の会」で気軽に相談できることで、これでいいんだ、と納得できるようになりました。気持ちを変えられた私は、父の老健入所を機に介護職員初任者研修を受け、無事合格しました。また社会復帰したいと思っています。

最近、父は体調が悪くなり入院しています。母も年明けから3ヵ月入院、幻覚が見えてきて、レビー小体型認知症を発症しました。まだまだ私の介護は続きます。ですが「家族の会」という大きな心の支えがあるので、どんと構えられるようになりました。若輩者の私が、これからの生き方を考えることができたのも、介護のおかげです。

認知症介護体験談10「『私にとっての介護』~80代の母を介護する40代の娘~」

受診のきっかけは、体の不調から

母は5年程前に認知症の疑い、3年前には「アルツハイマー型認知症で間違いない」と言われました。20年程前に手術をした脳の周りの萎縮が激しかったそうです。昨年9月に介護保険申請をし、【要介護度1】。

受診のきっかけは、母があちこち体の不調を訴えてもどこも悪くなく、それでも心配であれば、精神科で診てもらうように言われたからです。今思うと、母の言動がおかしい事は沢山ありましたが、その時の私は年齢や性格的なものだと、いつも母を怒ったり、責めたりする事しかしませんでした。

母から逃れたい

ずっと長い間親子関係は上手くいっていず、会話も殆どなく、母も私もストレスを感じながら生活し、私は心身共に疲れていました。そんな時に、母が認知症と診断され、これから一人でどうやって母を抱えて生きていったら良いかと途方に暮れました。

母は、そんな私の事などお構いなしに色々な問題行動を起こし、その後始末に追われ、私は毎日泣いてばかりでした。「母から逃れたい。早く楽になりたい」という事しか頭の中にありませんでした。

人と本との出合い

そんな中、近所で開催されている体操教室に行きました。在宅介護支援センターの方に話を聞いていただき、気持ちも楽になり、病院の先生に困ったり、分からない事を聞いてみようと思えるようになりました。

気分転換で行った図書館では、介護についての本と出合い、「正しく対応する事で、認知症の人の状態を改善する事が可能だ」と知りました。私の対応が母にとっては良くなかった事、そのせいで私もどんどん辛くなっていた事が分かったのです。

元気になった母の姿を見て、晴れやかに

学んで良いと思えるものはとにかく挑戦しました。その一つがアロマオイルです。認知症になってから、夜中に何度もトイレへ起き、日中はボーッとする事が多くなった母。使用してから夜中の回数が減り、眠りの質も良くなりました。数ヵ月後には、何でも億劫がっていた母が、自分から何かをしたいとまでなったのです。元気になった母の姿を目にして、私自身の気持ちが晴れやかになりました。

それからは、無理強いせず、気分の良い時は家事の手伝いをしてもらい、その代わりに、そろばんの読み上げ算や卓球、トランプや花札など2人でやれることを増やしました。人の集まる所へも出掛け、とても良い気分転換になりました。

今の生活がとても幸せ

気がつくと、3年前とは比べものにならない程、生活が落ち着き、私は今の生活をとても幸せだと感じる事ができます。そう思えるのは、母が認知症になってから本当に多くの励ましやサポートがあったからです。沢山の本を読み、自分の心を強くする事が、大きな助けとなったようにも思います。

主治医から、「数年後には、家族の顔も名前も分からなくなる日が来る」と言われ、とても悲しい現実ですが、大変な思いをしているのは私だけではありません。母も同じだと思うのです。母は母なりに毎日一生懸命頑張っているのです。だからこそ、母との楽しい思い出を沢山つくりたいのです。それが、私にとっての介護なのです。

この記事の補足情報

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