“笑い”は生きるエネルギー
「人生100年時代」と呼ばれるように、医療の進歩や多様な食文化によって私たちが健康で生活できる期間の「健康寿命」が延びています。
その一方で、仕事や子育てにある程度区切りがついた世代を中心に、自分の将来やセカンドキャリアの過ごし方に漠然とした不安を抱える「ミッドライフ・クライシス」を経験する方も多くいます。
そこで今回は笑点メンバーの一人でもあり、落語家として子供からお年寄りまで笑顔を届け続ける林家たい平さんにインタビュー。前編では、落語の世界から感じ取れる人生の豊かさ、笑いが人生にもたらすものについて、お話をお伺いしました。
落語家 林家たい平 はやしや たいへい
1964年埼玉県生まれ。武蔵野美術大学造形学部卒業後、1988年林家こん平に入門。2000年真打昇進。2006年より日本テレビ『笑点』の大喜利メンバー。全国での落語会のほか、テレビ、ラジオにも多数出演。
——はじめに、たい平さんと落語の出会いを教えてください。
落語に衝撃を受けたのは大学3年生のとき。当時僕は美術大学でデザインを学んでいて、課題に追われる忙しい日々を過ごしていました。
ある日、いつものように狭いアパートで課題に取り組んでいると、偶然ラジオから落語が聴こえてきたんです。演目は五代目柳家小さん師匠の「
——落語の何が、たい平さんをそれだけ夢中にさせたのでしょうか?
そのときは課題制作で徹夜が続いていたので、疲労が溜まって心が荒んでいたんですよね。でも、落語を聴いてゲラゲラと笑った途端に心がすっと晴れやかになった。温かいものが全身を駆け巡るような感覚を味わったんです。
そこで僕はハッと気付きました。大学の先生から「デザインは人を幸せにするためにある」と教わったけれど、落語も同じなのではないか……と。格好良いスポーツカーに乗ると勇気が湧くように、美しいカップアンドソーサーを使うと優雅な気分になるように、面白い落語を聞くと元気になる。ならば、僕は落語という画材で人の心をデザインしてみたい。それまで落語にあまり興味を持っていませんでしたが、「
——たまたま耳にした落語が落語家を志すきっかけになったのですね。
とはいえ、落語家は簡単になれるものじゃないと思っていたので、大学4年生の春休みに自分を試す旅に出ました。初心者なりに覚えた落語を、老人ホームなどで披露させていただいたんです。
そしたら、「久しぶりに声を出して笑ったよ!」「元気が出た」と言ってもらえて。考えてみると、日常の中で声を出して笑う機会って少ないですよね。でも、落語の世界に入り込んでいる間だけは、日常のことを忘れて気兼ねなく笑える……そんな非日常的な体験ができるのも、落語の素晴らしさだと知りました。
そして何より、笑わせに来たはずの自分が元気をもらっている。こんなに素敵な仕事はないと思い、旅の途中で「落語を生涯の仕事にしよう」と誓ったんです。
——落語家として約30年。あらためて落語とはどんな芸だと感じていますか?
落語は、お客さんとやり取りをしながら一緒に作り上げていく芸だと思います。同じ演目でもお客さんによって笑うポイントが違うし、笑い方も違う。落語家はそれを見て話し方を変えてみたりする……映画と違って生身の人間がその都度演じているわけですから、落語って一期一会なんですよね。
そして、お客さんとのやり取り=キャッチボールを成立させるためには、今を生きている人に向けた芸でなければいけません。だから僕は、古典落語を現代風にアレンジすることもあります。お客さんに「落語はけっして昔話ではなく、今にも通ずる話なんだ」と気づいてもらうために。
——現代風にアレンジしても落語が成立するということは、時代が変わっても話の本質は変わらないということですよね。
いつの時代も人間の本質は同じですからね。変わっているのは外の環境だけ。それに気づかずに変化が激しい世の中に適応しようとするから、人は心を痛めたり、大切なことを見失ってしまったりするのではないでしょうか。
落語の世界では、隣の夫婦喧嘩が毎日聞こえてくるくらいプライバシーは無いし、人に情報を伝えるにしたって直接会いに行くしかない(笑)。でも、そんな不便な生活にこそ人間らしさや生きる楽しさが詰まっていて、落語はそれに触れられる良い機会だと思います。
また、落語の世界には間抜けな「与太郎」をはじめ、個性豊かなキャラクターが登場します。でも、一人ひとりの個性を否定する人は誰もいなくて、むしろ積極的に仲間に入れているんですよね。
——たしかに落語を聴いていると、おっちょこちょいな登場人物に共感したり、「自分だけじゃないんだ」「ありのままの自分でいいんだ」と救われたりします。
一方現代社会では、与太郎のような人を置いてけぼりにしてしまっている気がします。人間のあらゆる性質を受け入れて楽しく共生している落語の世界は、多様性が叫ばれる今、改めて魅力的に映るのではないでしょうか。
——“笑い”を届ける落語家として、笑いにはどんな力があると思いますか?
東日本大震災のあと、笑いの力を実感する出来事があって。当時は仕事が一旦ストップし、自宅で家族と毎日を過ごしていたのですが、何を食べてもなんだか味がしませんでした。
でも半月ほど経った頃、食事中に息子のくだらない小話で家族みんなが笑った途端、食べ物の味がするようになったんです。落語を初めて聴いたときと同じように、温かいものが全身を駆け巡る感覚がして、生きている実感がどっと湧いてきました。
ふと振り返ってみると、震災が起きてから誰も笑えていなかった。そのときに、「あぁそうか、笑いは明日に向かって生きるエネルギーになるんだ」と気づきましたね。笑うことは、食事や睡眠に次ぐ生きるために必要なことなのではないか……と。
——不安や葛藤の最中では、自然と笑う回数が減ってしまいますよね。「最近なんだか上手く笑えない」と感じたときは、どんなことを心がけたらよいでしょうか。
笑顔が生まれるきっかけを探して、積極的に笑顔を作ってみること。
たとえば、朝の洗顔時に鏡を見ますよね。そのときに「今日も一日が始まるのか」と暗い顔をするのではなく、「今日は楽しいことがあるかもしれない」と鏡に向かって笑いかけてみる。一日の出発地点を笑顔にするだけで、心がすごく軽やかに、伸びやかになるんですよ。
ほかにも、ご近所さんが挨拶を返してくれた、家庭菜園で美味しい野菜ができた、逆にヘンテコな形の野菜ができた……など、笑顔が生まれるきっかけは案外身近にあるもの。何か特別なことをする必要はなく、日常の些細なことに目を向けてみることが大切だと思います。
——笑ったり、幸せを感じたりするハードルを高く設定しすぎない、ということですね。
そうですね。僕は最近ロードバイクを始めたのですが、車体のメンテナンスが大変でままならなくて。でも、一つクリアできる度にすごく嬉しくて、自然と笑顔になれるんです。
なので、何かに挑戦することも笑顔を作る一つの方法だと思います。どんなに小さなことでも、今までできなかったことを達成できたときの喜びは大きいですからね。誰かの評価は関係なく、自分で「できた!」と思ったときに鏡で顔を確認してみてください。きっと、ニコニコと笑顔を浮かべているはずですよ。
すると、その様子を見た人が「どうしてそんなに嬉しそうなの?」と聞いてきて、「実は◯◯ができるようになって……」と共有する。そうして笑顔の輪が広がると、良い循環が生まれます。様々な経験をして、年齢とともに達成感を得る機会が減ってきた中高年世代の方にこそ、何かに挑戦してみてほしいです。
また、笑いの中に身を置くこともおすすめです。大きなホールでは1,500席なんていう所もありますが、1,500人もの笑いの中に身を置く機会ってなかなか無いですよね。
一つの大きな笑いに包まれることで温かい気持ちになり、イキイキとしてきて、いつの間にか自分も笑っている……そんな幸せな体験ができる落語の力を、僕は一人でも多くの人に伝えていきたいと思っています。
取材・文:郡司しう 編集:株式会社GIG
取材を終えて
たい平さんが会場に入られると、その空間は背筋が伸びるような緊張感に包まれました。メディアを通じて感じるたい平さんとは異なるカラーに染まったよう。言葉の一言一言には重みがあり、想いやその情景が目の前に現れ、たい平さんの世界に引き込まれていきました。
取材の中で語られた落語の世界。現代社会では、個性豊かな個が置いてけぼりにされてしまっている場面が多いように感じますが、落語の世界では、積極的に仲間として受け入れているそうです。落語を聴いていると共感でき、「自分は自分のままでいいんだ」と思えます。それは、まさに、認知症の人をはじめ多様な個が、それぞれを受容して創っていく「共生」社会に通ずるものであるように感じます。認知症の人もコミュニティの中に自然にいる、仲間として一緒に隣にいるのが当たり前。そんな社会に生きていけたら居心地が良さそうです。
時に、古典落語も現在風にアレンジするたい平さん。そんなアレンジが成立するのは、時代が変わっても話の本質が変わらない、つまり人の本質は変わらないから、とのこと。変わるのは、人を取り巻く環境。「認知症と診断されて、自分は何も変わらないのに、周囲の対応が変わった」そんな認知症と生きる仲間の声が脳裏を過りました。診断されても自分は自分、急に何かができなくなったり、分からなくなったりすることはないと言います。でも、周囲の対応や社会からの視線が「何もできない、分からない人」へ変わり、生きづらさを感じるそう。できなくなること苦手なことが、目に映るかもしれません。でも、できること得意なこと、やりたいこともあります。月が満ち欠けと共に我々に見せる姿を変えても、月であることは変わらないのと同様に、認知症と診断されたその「人」は得手不得手があっても、意思や想いを持つ一人の「人」なのです。
見方を少し変えてみたり、鏡の前で、少し微笑んでみたりすることが、自分自身も周りの誰かにとっても、幸せを感じる機会が増える秘訣かもしれません。
本取材並びに原稿作成にご協力いただいたみなさまに、心より感謝申し上げます。